カヴァルカンティとは
アルベルト・カヴァルカンティはブラジル生まれの映画作家で、その世界を股にかけた映画渡世についてはつとに山田宏一氏が「映画史に消えた二人」(『山田宏一のフランス映画誌』ワイズ出版所収、というより筆者にとってはケイブンシャ文庫の『シネ・ブラボー 小さな映画誌』所収)で記している通りであるし(ちなみに「映画史に消えた」もう一人はボリス・カウフマン)、また
BFIのサイトにも記述がある。無論英語版ウィキペディアにも。とはいえ上記参照で済ますのも不親切なので、上記に従って一応書いておくと、カヴァルカンティは97年リオ・デ・ジャネイロ生まれ、十五歳で建築とインテリア・デザインを学ぶためジュネーヴに留学、その後パリに移り、マルセル・レルビエ『人でなしの女』(24)、『生けるパスカル』(26)の美術監督を務め、また自身パリの一日のスナップをモンタージュする、ヴァルター・ルットマン『伯林―大都市交響楽』(27)と並ぶ、都市を題材とした前衛映画『時の他何物もなし』(26)を撮る。これはジガ・ヴェルトフ(ボリス・カウフマンの兄)に影響を与えたとされる。またこのフランス時代には、後のフランスを代表する美術監督ラザール・メールスンを育てた。ジャン・ルノワールと当時のその婦人カトリーヌ・エスランを主演にした短編二本を撮ってもいて、また、彼の姪であるディド・フレールが後にルノワール夫人となるので、カヴァルカンティとルノワールは縁戚関係にもなる。
その後カヴァルカンティは、当時イギリス郵政局(GPO)にいたジョン・グリアソンに招かれて34年にイギリスに渡り、GPOでイギリスの産業、都市を扱ったドキュメンタリーに関わる。彼は『石炭層』Coal face(35)などを監督したほか、製作、脚本、編集、音楽監督、美術監督などあらゆる分野の仕事をし、そうした中でハンフリー・ジェニングスらその後の英国ドキュメンタリーを担ってゆく監督を育てたにとどまらず、まだ作曲家として新人のベンジャミン・ブリテンを映画の音楽に起用したりもした(GPOの作品は多くDVD化されていて容易に観ることができる)。イギリスがドイツとの戦争に突入すると、外国人は役職から追放されることになり(上掲山田本によると、イギリス政府から国籍を取得するよう言われても、パスポートを書き換えただけでイギリス人になれるはずもない、と断ったという)、折から、自分のスタジオを刷新しようとしていたマイケル・バルコンに招かれ、イーリングに入る。ここでもカヴァルカンティは、その豊富な映画製作経験で後進を育てた。「もしミック(バルコン)が父親であるならば、カヴァルカンティは私たちを育ててくれた乳母であった」とイーリングのパブリシティ・ディレクターのモニア・ダニシェフスキー(あのイーリングの独特なポスターの作者)は書いているということだ(チャールズ・バー『英国コメディ映画の黄金時代』清流出版より)。カヴァルカンティはイーリングにドキュメンタリー的なリアリズムをもたらすことになるが、確かにコメディといいつつも、イーリング・コメディには、アメリカのコメディと比べると様式化されつくしていない、良く言えば地に足のついた、悪く言えば地味なところがあり、それがシニカルなユーモアと結びついて独特な雰囲気を醸し出している。それがすべてカヴァルカンティのもたらしたものというわけではあるまいが、何らかの影響は与えていると見て間違いないと思う。
イーリングで、またイーリングを出てから彼がイギリスで撮った作品(『私は逃亡者』もそうした一作)については次項に触れるとして、カヴァルカンティのその後について先に記しておく。その後50年始め、ブラジルに帰った彼は、ヴェラ・クルス映画社の製作部長としてリーマ・バレット監督の『野性の男』(52)の製作、『海の唄』(52)の監督を務め、60年代のシネ・ノーヴォにつながる新たな映画のお先棒に立つ。しかし折からの冷戦で共産主義との関わりを疑われ、再びヨーロッパに渡り、オーストリア、イタリア、イギリス、さらにイスラエルで映画を作ったという。82年にパリで死去している。彼のキャリアを大雑把に分ければ、フランス時代、イギリス時代、ブラジル時代ということになろうかと思うが、中でもイギリス時代が作品数、内容ともに充実していると見て差し支えないと思う。