他に原作を仰いだ二作『ネオン・バイブル』と『歓楽の家』
自伝的なフィクションで、ほぼ自分の生涯を網羅してしまったデイヴィスは、他に原作を求めることになる。『ネオン・バイブル』(95)は、アメリカ南部出身の作家、ジョン・ケネディ・トゥールが十六歳で書いた小説の映画化。トゥールは、母親と二人暮らしの男が職を探してニュー・オーリンズのフレンチ・クォーターを彷徨するうち、奇妙な人々に出会う、という筋らしい『のろまたちの連盟』The confederacy of duncesという代表作となる小説が出版を拒否され、鬱状態に陥り、自殺。死後出版された『のろまたちの連盟』でピュリッツァー賞を受賞することになる。『ネオン・バイブル』は彼の死後、破棄されずに匡底に残されていた処女作ということになる。四十年代のアメリカ南部、いささか暴力的な父と従順な母と三人暮しの少年のもとに、母の姉の歌手が食い詰めて厄介になりに来る。南部にはまだ差別が残っており、シーツにくるまれて吊るされた、おそらくは黒人の死体が燃やされたり、歌やダンスなどの享楽をののしり、保守的な道徳をファナティックに語る似非宗教家がいたりする。父が太平洋戦争に動員され、その後戦死。母はそれを機に精神に異常をきたし始め、また少年の精神的支えとなっていた伯母も、ある時知り合ったバンドマンに、ナッシュヴィルでラジオの仕事があると去ってしまう。主人公が母の世話をしなければならない、とドラッグストアの仕事を辞めて帰ると、母はベッドから落ちて死んでしまっている。母を自分で埋葬した直後、教会の人間(彼も厳格な道徳を得々と述べたてていた)が母を施設に引き取る、と無理やり家にあがりこもうとするので、彼を威嚇するつもりの猟銃で、その男を殺してしまう。
映画はナッシュヴィルに伯母を訪ねていく汽車の中の少年から始まり、全体はフラッシュ・バックの枠組みであるが、基本的に時間軸に沿って出来事が語られてゆく。暴力的な父が、少年時に主人公の生活からいなくなるなど、デイヴィス自身と重なるところがあり、それがこの小説を原作に選んだ理由ではあるだろう。しかし、アメリカ南部という土地柄や、太平洋戦争前後という時代背景があまりにもあっさり処理されすぎており、かつデイヴィス的な時間処理もほとんど見られず、いささか拍子抜けな感じがする。父、伯母、母と、少年は支えを次々と失い、ナッシュヴィルに伯母を探しに行くが、そこに伯母がいるという確証はない。そうした少年の心もとなさが確かに感じられはするのだが、アメリカ南部を選んだ、という選択がかえって邪魔をし、そこに主題を絞り込んだ感じがしない。ちなみに伯母を演じているのはジーナ・ローランズ。
『歓楽の家』The House of mirth(00)は、イーディス・ウォートン原作で、二十世紀初頭のニューヨークの上流階級を舞台にしている。上流階級ではあるが、比較的貧しいヒロイン(ジリアン・アンダーソン)が、裕福な男性との結婚よりも恋愛を優先、また軽薄な行動がスキャンダルとなり、また女友達の裏切りもあって、周囲に見放される。女友達の裏切りを暴きたてることで自身のスキャンダルを晴らすこともできたのだが、彼女の潔癖さがそれを許さない。ついに身を立てるすべを失った彼女は、下層階級に立ち混じって働くものの、慣れない肉体労働でしだいにやつれ果ててゆく。しかし男たちの援助の申し出を拒否し、ついに入った伯母の遺産も借金返済に充てた彼女は、睡眠薬の過剰摂取で貧困と汚辱の中で死んでゆく。
これもアメリカを舞台とした作品で、しかし上流階級を描いたコスチューム・プレイという点で、これまでの作品とはまったく性質が異なる。全体に淡々と場面を積み重ねてゆく構成で、これまでのデイヴィスに特徴的な時制や、音楽の使い方は全く見られなくなり、これが同じ監督の作品とは思えないほどだ。イーディス・ウォートンといえばマーティン・スコセッシの『エイジ・オブ・イノセンス/汚れなき情事』もウォートン原作で、これも抑圧的な上流階級での恋愛の悲劇を扱うが、スコセッシの中ではまだしも淡々とした映画だった印象があるが、本作はそれ以上。しかし逆にそうした抑えたスタイルが悲劇性を高めるということもあるだろう。デイヴィスは最新作『深く青い海』The deep blue sea(11)でもまた、空軍のパイロットとの恋のために上流階級の身分を捨てる人妻を描いているということで、抑圧的な社会に抵抗する気高い女性、を新たなテーマに選んでいるのかもしれない。ただ、その中で、手法的、スタイル的にこれまでの自伝的作品との間にいかなる継続性があるのか、あるいはいかなる飛躍がなされているのかは、まだ筆者には判然としない。
テレンス・デイヴィスの本領は、やはり自伝的な作品、しかもその中でも最良のものは、自身が登場人物として現れることのない、伝聞による過去の構築たる『遠い声、静かな暮らし』に最もよく現れていることは確かなようだ。不在であることが人に想像させる、その想像の豊かさ。ただし、デイヴィスはまだ現役で活躍中の映画作家であり、今現在で我々が気づきえない伏流のようなものがこれまでの作品の中に秘められていて、それが将来撮られる作品に現れる、ということもあるかもしれない。デイヴィスの新たな相貌の発見は、その機会を待たねばならない。
『テレンス・デイヴィス・トリロジー』、『遠い声、静かな暮らし』、『長い日が終わる』、『時と街について』は先述のとおりすべてBFIからDVDが出ている。すべてリージョン2で、Pal再生。そのすべてにメイキング等の特典映像がつき、また『時と街について』以外はすべてデイヴィス本人のコメンタリーが聞ける。『長い日が終わる』と『時と街について』はアメリカ版も出ている。
『ネオン・バイブル』はアメリカ版、『歓楽の家』はアメリカ版、イギリス版が出ている。