『遠い声、静かな暮らし』DVD
『遠い声…』冒頭の階段
初の長編『遠い声、静かな暮らし』
『遠い声、静かな暮らし』は、日本では六本木のシネヴィヴァンで公開されている。筆者は公開当時既に確かに東京にいたのだが、公開されていること自体も恥ずかしながら知らなかった。シネヴィヴァンといえばゴダール、ロメールという印象で、まあ、イギリスのよく知らない映画作家の作品、しかもノスタルジーにあふれた作品ということで当時としては興味が湧かなかったものと思われる。しかし今こうして実際に見てみると、ノスタルジーでは済まされない過激さがあるのも確かなのであって、かつ、この過激さも、当時これを単体として見ていたら気がつかなかったのではないかという気もする。
本作は「遠い声」と「静かな暮らし」の二部に分かれるが、「遠い声」では、主人公となる青年の姉の結婚祝賀パーティを基準点にしながらも、病気でそこにいない父との思い出(過去)、既に亡き父の葬儀(未来)の映像が唐突にインサートされる。「静かな暮らし」では父亡きあと、妹の結婚を経て主人公が結婚するまでを描く。彼ら一家は労働者階級が住む集合住宅に暮らしており、今でいえばメゾネット式、住宅を縦割りにして、一階と二階をつなぐ階段が玄関に向かって直ぐのところに位置している。映画の冒頭、ラジオの天気予報の音声が漏れ聞こえる中、カメラがそうした集合住宅のとある一件の玄関を入り、玄関口から二階への階段を捉える。母が現れ、二階の子供たちに、早く起きなさい、と声をかけ、姿を消す。すると置きだしてきた子供たちが階段を下りてきて、母に話しかけたりする。とはいえ、その音声が聞こえるばかりで、実のところ映像には何も映っていないのだ。そのまま階段を捉え続けたカメラがゆっくりとパンし、玄関を再び、今度は内側から捉えると、画面はフッとモノクロに変わり、玄関口に霊柩車がやってきて止まる。子供たちの音声は、「遠い声」の現在時において青年期にいる主人公たちの幼年期の、過去の声であり、また、霊柩車は、現在時においてはまだ死んでいない父の葬儀のための車である。つまりここでは過去と未来がパン一つで併置されることになる。かつこの間、当時の流行歌とゴスペルのような歌が背後に流れ続けていて、音声自体の一貫性は保たれている。映像の内部におけるズレ(それを発するものが不在である声、異なる時間の併置)と、映像とまた別の位相にあるかにみえる音声の一貫性。こうして映画は、いつどこともしれない時空間をほんの数分で立ち上げてみせる。そして以後、横暴な父と子供たちである彼らが衝突する場面がクロノロジーをまったく無視してランダムに描かれ、結婚式がこの映画における定点であることが判明するにつれ、この映画全体が、回想なのだと分かってくる(しかし誰の?)。つまり冒頭のショットは、この映画の時空間が、想起における時空間なのだと思い至るのである。
思い出す者にとって過去の出来事は、たとえその間がいかにクロノロジックに離れているものであっても、共に過去であるという点で等しい。幼年期の出来事も、その後に起こることになっている出来事も、まったく同じ地平に並べられてしまう。一方その背後に流れ続けている音楽は、これらの映像とは違う位相にあるように思えるのだが、では一体どこで流れているのかといえば、それはおそらく思い出す意識の現在において、なのだろう。音楽が保証する一貫性は、思い出している意識の流れの一貫性なのだ。要するに、この冒頭の場面が捉えているのは、思い出す、という意識そのものにおける時間の(狂った)パースペクティヴなのである。この場面の現在時とは、実のところ過去でも、未来でもない現在であり、ただしクロノロジックな点としての現在ではなく、想起するという活動における現在、思い出す者の意識の中にしか現前しない現在、なのだ。
『遠い声、静かな暮らし』に描かれている一家の中に、実はテレンス・デイヴィス本人に当たる登場人物は出てこない。ここに描かれているのは、彼が生まれてまだ間もない頃のことであり、これらはすべて兄や姉から聞いた話なのだという。本作にはどこかそれこそ「遠い」感じ、自伝的トリロジーに見られたような辛辣さ、激しさが見られないのだが、そこにはそのような事情がある。しかしだからこそ、デイヴィスは映像=音声の処理に集中することができたとも言えるのであって、実際本作の時空間の処理は以後のどの作品以上に複雑であり、本作は一見そう見えるようなノスタルジックな思い出話である以上に、「想起」という哲学的=文学的テーマに対する映画からの挑戦として、実は結構前衛的なものである。映像と音声のズレなどは、観ていてゴダールを連想させるものがあり、いや、ゴダールは大げさか、と思っていたら、実際ゴダールも本作を認めているようなのだ。本作と次の『長い日が終わる』の製作総指揮を務めているのが、当時BFIにいた、映画研究者でもあり、製作者でもあるコリン・マッケイブで、彼の著書『ゴダール伝』の翻訳者、堀潤之のあとがきによると、本作は「ゴダールが八〇年代で唯一の優れたイギリス映画と形容した」作品であるという。無論ここでの映像と音響のズレは、ゴダールにおけるほどに過激でもないし、全面的に展開されているわけでもない。ノスタルジーが漂っていないこともなく、甘いと言えば甘いのだが、それでもここに、映像と音響のアレンジメントによって現れた時空間は、映画によってしか生み出せない、どこでもない時空間であることは間違いない。