ロンドンとリリアン・ギッシュ Text by 大塚真琴   第3回 ロンドンⅢ
イタリア
ロンドンに行って、初めてイタリアで毎年10月にやっている無声映画祭のことを知った。ロンドンからイタリアなら飛行機で2時間くらいだったので行くことにした。イタリアに行くのは初めてだった。飛行機でヴェネツィア空港に着いて、列車に揺られて遠い町まで行った。イタリアは乾いたクッキーの匂いがすると思った。一人で少し心細かったが、その分気楽でもあった。安めのホテルをとって、ホテルから会場まで歩いて通った。朝から夜中までずっと無声映画だけを上映している映画祭だった。体力がなくてすぐに疲れてしまう私にはかなりきついスケジュールだった。というよりも、こんなふうに立て続けに何本も何本も何本も映画を観ることが、映画を観る方法としてはたしていいのだろうかと真剣に思った。メモをとろうとすれば画面から目を離すことになるし、無理矢理とったメモは後から見ると何を書いているのかまるでわからない。記憶しようとしても、さっき観た映画と今観ている映画がもうごちゃまぜになってしまうのである。それで、一体どうしたらいいのかわからなくて悩んだ。しかも、来ているのは研究者、評論家、ジャーナリスト、コレクター、マニアばかりで私はなんだか居心地が悪かった。もしかしたら、このような人たちはすでに知っている映画も多いだろうから、本当に観たいものだけを選別して観ているのだろうかと考えた。映画を観られるのは嬉しかったけれど、あとは一人で離れて散歩でもしていたかった。グリフィスの作品を年代ごとに上映する企画が前の年から始まっていて、私が行った時は1909年の作品をやっていた。1909年は作品の数が非常に多いので、2回にわけて行われた。私がこの映画祭に行ったのはこの年と翌年だけなので、グリフィスの1909年の作品はすべて観たことになる。でも、一回観たくらいでは何も言えないし、何もわかったことにはならない気がする。しかも著作権登録用のペーパープリント(ケヴィンが見るためだけの紙のプリントと言っていたのはこのことだったのか)から上映用に作られたフィルムは画質が悪く見にくいことこの上なかった。このグリフィス映画の企画に合わせてGriffith Projectという本がシリーズで出ているけれど、読むための本ではなく、資料という趣が強く、あまりおもしろいものではない。
この映画祭のことを思い出すと、無声映画のマニアとそうではない人との隔たりを感じる。なぜ無声映画に関してはこのような隔たりが生まれるのか、私にはわからない。無声映画といっても、当時は映画というものがすべてそうだったわけなのだ。人は皆映画を観に行こうと言って出掛けたわけで、無声映画を観に行こうとは言わなかったはずである。映画はただ映画で、それが発声映画になったりテクニカラーになったりして変化しているだけなのではないのだろうか。
おびただしい映画を観て、ウィリアム・ワイラーの楽しい無声映画のことや、口を開けて笑っていたバスター・キートンの映画、スコットランドの慈善団体の宣伝映画と思われる短い映画、ジョン・フォードのアイルランドへの思いなどが頭の中に湧き上がってくる。『カビリア』(12—14)の使われなかったカット集というものまであった。北欧映画の特集の時はヒッチコックの特集もやっていて、チャールズ・ロートンとエルザ・ランチェスター出演の『Day Dreams』(28)と『Blue Bottles』(28)を観られたことが何よりも嬉しかった。監督のアイヴァ・モンタギュは1924年に設立されたThe Film Societyの創設者で、彼がH・G・ウェルズのストーリーを基に監督した映画なのである。このフィルム・ソサイエティにはヒッチコックとH・G・ウェルズの息子であるフランク・ウェルズもメンバーとして名を連ねていたそうである。
何百本という映画を観たのに、今でも心に残っているのがユリウス・ヤエンソンのホームムービーだということが不思議でならない。ヤエンソンはプロのカメラマンである。その人がビデオなどない時代にフィルムで休暇をすごす家族の姿を撮影したものなのである。ストーリーなどない。ただ、家族の姿を撮影しているその映像の“ただ撮る”という映画の原点を見ているような、その純粋に映画であるということに心を打たれたのである。これはまぎれもない“映画”であると感じた。
無声映画の世界の広さをさらに実感し、ロンドンに帰った私は心からほっとした。