ロンドンとリリアン・ギッシュ Text by 大塚真琴   第2回 ロンドンⅡ
アニマル・クラッカーズ
フレッドのところには、あんまり行っても迷惑かなと思って一週間くらい顔を出さないこともあった。ホットチョコレートを飲みながらフレッドにおとといはここに行った、昨日はこの映画を観たよと話すのが楽しかった。リリアン・ハーヴェイの映画や『特攻大作戦』(67)や『偽りの花園』(41)を観たよと。フレッドはマリアン・コーンという版画家の版画集を貸してくれた。紹介文をドナルド・リチーが書いていた。マリアン・コーンはフレッドの遠い親戚にあたるそうだ。それからフレッドはロイヤル・イクスチェンジ・シアター・カンパニの舞台「アニマル・クラッカーズ」のチラシを見せてくれた。マルクス兄弟の舞台なのだ。これはおもしろいからぜひ見に行こうとフレッドは言って、私はマルクス兄弟を舞台でやるなんて相当勇気のいることだし、一体どんな舞台になるのだろうとその時は想像もつかなかった。でもフレッドとお芝居を観に行けるなんて最高だなと思い、私たちはチケットを取って一緒に行く約束をした。お店には夕方閉店の時刻になるとフレッドの奥さんと息子さんがよくやって来て、三人で一緒にタクシーに乗って帰っていた。奥さんは「あなたはちゃんと目的があってここに来ている、私はそういうのは大好きよ」と言ってくれた。奥さんは黒澤の『夢』(90)が好きなのだった。ケヴィンから聞いていたのかフレッドは「違うよ彼女は黒澤より小津が好きなんだよ」と奥さんに言った。私は『夢』がそこまで好きではなかったので、外国の人のほうがおもしろさを感じるのだろうかと思った。

「アニマル・クラッカーズ」当日、待ち合わせの時間に本屋に行くと、フレッドはお店を閉める準備をしているところだった。タクシーでバービカン・センターへ行った。パスタと中華のライス、サラダの食事をとりながら、この間観た映画には窓が開いてブランコが見える場面があったんだよと言うと、フレッドは紙ナプキンに“Une Partie de Campagne”(ジャン・ルノワールの『ピクニック』)と書いてくれた。フレッドの奥さんは動物好きで、犬を一頭と猫を6匹飼っているそうだ。フレッドは本屋を開いた当初、専用の名刺と便箋を作った。名刺は名刺を持っているフレッドの手を撮影したもので、フレッドの親指が写っていて、この時指に傷があってそれが見えないように撮ったんだよと話していた。本屋を開いたのは35歳の頃で、その前はメアリ・クワントのところで裁断師をしていたそうだ。バービカン・センターの近くだったようだ。その当時はカフェから見える教会が一番高い建物であとは何もなかったのだ。
デザートを食べて、会場へ向かった。テントの中で舞台を客席がぐるりと囲むような作りになっている。19時15分から「アニマル・クラッカーズ」が始まった。
英語が完全に理解できるわけではないのに、私はおかしくて死にそうになり、笑いっぱなしであまりの幸せに卒倒しそうだった。グルーチョもハーポもチコも命がけの真剣さで役を自分のものにして、さらに徹底して役を作り上げていた。マルクス兄弟が生きていたら、生の舞台で彼らを見たら、きっとこんな笑いの渦が毎日湧き起っていたに違いない。役者の情熱と観客の熱意の間で目に見えないものが生まれていると感じた。こんな笑いを聞いたことがなかった。お芝居っていいなあと心から思った。この日、タクシー代、食事代、パンフレット代、ドリンク代すべてフレッドが払ってくれた。お金を払おうとしても受け取ってくれなかった。
この日のことを生涯忘れないだろう。