『ギャング同盟』
『ギャング同盟』は深作にとって、『白昼の無頼漢』、『ギャング対Gメン』に続く3本目のギャング映画になる。東映東京撮影所の所長である岡田茂自らの陣頭指揮による、オールスター映画『ギャング対Gメン』は、アメリカのテレビドラマ『アンタッチャブル』をヒントした相も変わらぬ能天気なGメンもので、これでは深作も真価を発揮しようがなく、「日本にはギャングという土壌はないわけですよ。似ているといえばやくざということになるのだが、やくざの土壌というのはまたちがうのでね。その辺に歯切れの悪さというか、しょせん無いものをこちらの生活観、思想というものに引きつけて語る点に矛盾があった」(「深作欣二 全自作を語る」~「世界の映画作家22」キネマ旬報社、1974年所収)と深作は嘆くことになる。
『ギャング同盟』ポスター
『ギャング同盟』
『ギャング同盟』
だが続く『ギャング同盟』は、『白昼の無頼漢』、『誇り高き挑戦』で組んだ佐治乾と秋元隆太、それに深作の三人が脚本を書き、『白昼の無頼漢』を発展させた反逆のギャング映画となった。佐治と秋元は八木保太郎の同門で、日活で『影なき声』でも共作している。深作の回想によれば、『ギャング同盟』に関して脚本を実際に執筆したのはプロデューサーの吉田達が連れてきた秋元で、佐治はほとんど書かず、黒澤明の脚本チームにおける小國英雄と同じような立場であったらしい(「映画芸術」2006年夏号N0.386)。
真鍋理一郎のジャズのリズムに乗ってタイトルが映し出されると、そのバックにはこの映画の主人公たちが、どのようにして敗戦後の闇市を生き抜き、朝鮮戦争の特需に乗じて一攫千金を掴み、そして対立する《組織》との抗争に破れ去ったことがテキパキとしたモンタージュとストップモーションで描かれる。このプロローグは『仁義なき戦い』(1972年)そのまんま。その中のひとり、風間(内田良平)が10年の刑期を終えて出所してくると、仲間の高木(佐藤慶)が迎え、開発中の渋谷を案内しながら、敗戦の混乱した時代はすでに過ぎ去り、高度成長に向けて発展する町の縄張りが巨大化した《組織》が牛耳っていることを聞かされる。二人は、《組織》の下部企業でマネージャーをしている高木(戸浦六宏)、呑んだくれの楠(山本麟一)とその妻の柾江(楠侑子)、水商売の女の手配師をする志賀(曽根晴美)ら昔の仲間を集めて、“組織”の会長(薄田研二)を誘拐し、身代金をせしめようと計画する。高木の内通で会長と偶然そこに居合わせた会長の娘・秋子(三田佳子)を誘拐し、アジトに監禁するが、会長補佐の宮島(平幹二朗)に率いられた“組織”の反撃にあって、激しい銃撃戦となる……。
今回はケイパーものではなく、巨大組織を向こうに回して、その会長と娘を誘拐して身代金を取ろうというハ-ドボイルドなお話。クレジットにはないが、企画は俊藤浩滋のお膳立てによるもので、そのセンで俊藤がマネージメントするアイ・ジョージが顔出ししている。それにしてはアイ・ジョージは歌を披露するが、誘拐メンバーに加わるわけでなく、窮地に陥った仲間を助けてさっさと死んでしまう役どころで、ゲスト出演っぽい。俊藤がまだ東映との関わりが強くなかったせいで手持ちのタレントを多忙なスケジュールを縫って出演させただけのようでもある。その代わり、佐藤慶、戸浦六宏といった大島渚組のクセモノ俳優が魅力を放っている。
誘拐メンバーがアジトにするのは、『白昼の無頼漢』のロケでも使われた山中湖近辺の米軍の遊興地キャンプ・マックネアのゴーストタウン。クライマックスはここを襲撃する《組織》との銃やダイナマイトを使った銃撃戦が繰り広げられ、『白昼の無頼漢』とまったく同じ趣向ながら、その攻防戦はさながら西部劇のよう。
撃ち合いの末、死者累々とした中で、会長は拳銃自殺をし、風間と秋子だけが生き残る。どうしてこの二人なのかという甘すぎる作劇への疑問は残るが、終始サングラスをかけてクールな三田佳子は好演。風間を演じる内田良平は日活との契約が切れ、フリーランスになって東映と本数契約をした第1作が本作。《組織》の会長を演じた薄田研二は現代劇も悪くない。薄田は「自分を誘拐して殺しても、また次のボスが現れるだけだ」と淡々と言う。劇中、誘拐メンバーと対立する相手は常に《組織》と呼ばれ、抽象化された存在であるだけに、この薄田のセリフには凄味がある。
ギャングという土壌がない日本において、どのようにギャング映画を成立させるかという深作のテーマは、タイトルバックによるプロローグからかつての仲間を集めるまでの前半部に反映されているが、後半部は攻防戦を描くだけで手いっぱいといった感。ただし、本作の前半をそのまま米軍占領下の沖縄に置き換えてつなげれば『博徒外人部隊』(1971年)にもなりうるわけで、そこから『仁義なき戦い』までにはあと少しだ。