コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 Jフィルム・ノワール覚書⑪ 東映ノワール 関川秀雄の場合   Text by 木全公彦
『静かなる兇弾』
『静かなる兇弾』
『静かなる兇弾』(1959年)

『漂流死体』に続く関川の作品が『静かなる兇弾』(1959年)である。原作は菊村到が文學界新人賞を受賞した出世作「不法所持」(1957年)。脚色は当時まだ新人だった鈴木岬一(後年、鈴木清順の『カポネ大いに泣く』の脚本を大和屋竺と共作する)。

深夜、カップルがタクシーに乗り込もうとして、運転手が頭をぶち抜かれて死んでいるのを発見する。野田巡査部長(志村喬)と新米の田口刑事(高倉健)が警視庁の捜査員とともに駆けつけるが、目撃者はおらず、銃声を聞いた者もいなかった。銃器技師の鑑定で兇行に使われた拳銃は、ベルギー製ベアードだということが分かった。捜査は拳銃の出所を重点的に調べることから始まった。野田は聞き込みからカントリー&ウエスタンバー「テキサス」に、拳銃の詳しいという歌い手カラミティ(久保菜穂子)を知り、競輪の予想屋で小林(山本麟一)という常連客が出所不明の拳銃を持っているという情報を掴む。野田と田口は小林を連行するが、拳銃は夜の女アケミ(星美智子)が帰国する米兵から土産品としてもらったもので、事件とは無関係だった。捜査は行きづまった。翌日、野田は娘の早苗(中原ひとみ)とカトリック教会を訪れた。早苗は島岡技師(今井俊二)との婚約を佐藤神父(山村聰)にうちあけた。推理小説ファンの佐藤神父は野田に重大なヒントを与えた。犯人は別のタクシーの運転手かも知れない……。

ベテランコンビと新米コンビが拳銃の出所を探って聞き込みをする。そしてベテラン刑事を演じるのは志村喬――となれば、Jフィルム・ノワールの出発点になった黒澤明の『野良犬』(1950年)をいやおうなく想起させる。実際、新米刑事の高倉健が志村の家を訪れて、志村の娘の中原ひとみに歓待を受けて、手料理を食べつつ、ビールを飲む場面は『野良犬』そっくりだ。だが、すでに時代は『野良犬』のように焼け跡や闇市が残る戦後の日本ではない。志村と高倉のコンビが拳銃の出所を探して聞き込みをするのは、オカマバーであったり、粋なカントリー&ウエスタンバーなのだ。

このバーで西部劇の格好をして歌を歌うシンガーが、これが東映初出演になる久保菜穂子。新東宝が傾くと、フリーになって東映と大映を中心に映画出演するが、本作をきっかけに東映ノワールにも数本出演している。意外にも歌もなかなか上手くって、実に艶っぽく魅力的で儲け役というべきか。それに対して山村聰扮する推理小説マニアの神父の存在は謎で、ブラウン神父の話を持ち出したり、告解についてそこで知った事実はほかでは話していけないなどと意味深長な言葉を志村喬に話したりするが、それらの伏線らしきものは消化不良であまりうまくいっていない。推理小説マニアというのもいささかご都合主義的。

映画の紹介文には「神の前では人間は平等であり、ことごとくその罪を許されるという宗教的観念と、法律の上でこそ人間は平等に裁かれなければならない――というむずかしい問題をふくんだアクション」(「キネマ旬報」1959年8月下旬号グラビア)とあるが、原作はいざしらず映画版はそんな観念的な要素は微塵もない。

菊村到は1957年に「硫黄島」で芥川賞を受賞するが、本作の原作「不法所持」とのダブルノミネートであったようだから、おそらく原作は単なる通俗的なアクション小説ではないのだろう。むしろ映画化に際して観念的な部分をすっぱり切ったのだろうが、山村聰の存在やカトリック信者の懊悩をうまく生かしていないので、やがて明らかになる犯人の意外性がなく、犯人から銃を預かった重要人物の存在もご都合主義的に映ってしまった。最後の良心をめぐるやりとりも、おおげさな演出や音楽のわりにキリスト教徒でないわれわれにはよく納得できない。同じ題材ならヒッチコックの『私は告白する』(1953年)ぐらいのサスペンスがほしかったところ。

ただしタクシー運転手の射殺死体を見せるオープニングから、捜査陣が駆け付け、現場検証、物証鑑定、拳銃の発射実験、被害者の身元調査等へと至る一連の流れは、確実に『警視庁物語』シリーズの定石を引き継いでなかなか見せる場面になっている。

高倉健はいつもながら生硬な演技で棒きれのよう。関川作品では『獣の通る道』に続く出演の志村喬はパイプを終始咥えていて、さながらメグレ警部といったところか。さすがに名優の貫録。ほか山茶花究が珍しく東映に出演している。

なお、本作は複数のウェブサイトで有料配信されていて、下記はその代表的サイト。
DMM配信『静かなる兇弾』