コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 俳優ブローカーと呼ばれた男【その弐】   Text by 木全公彦
各社の事情と思惑
岸恵子
結局、岸恵子問題は星野和平を通じて松竹京都撮影所の所長・大谷隆三(大谷竹次郎の次男、大谷博は義兄にあたる)と話し合い、さらに星野が高村潔の了承を得て解決し、『弥太郎笠』のクランクイン直後に岸恵子の出演は正式に承認された。

こうした一連の引き抜きや独立騒動の裏で糸を引いていたのは星野和平ではないかと憶測が飛びかい、マスコミはこぞって〈スター買占め王 星野旋風が映画界を席捲〉と騒ぎたてた。すでに鶴田浩二が松竹を独立し、新生プロを設立したときから、教唆したのは星野か大谷博かという憶測が飛んでいたが、星野はこの時期松竹の禄を食むプロデューサーでもあるし、大谷博は東京プロの相談役でもある元松竹の重役だから、松竹のお家騒動ではないかという噂も一部にあったようである。

かなり早い段階で『弥太郎笠』から東京プロの名前が消えて、星野単独で製作者としてのみクレジットされることになり、『弥太郎笠』が新生プロと新東宝の提携作品という形になったのは、大谷博をバックにする東京プロの名前を消すことで非難の矢面に立つことを避けたのだろうか。だとしても、東京プロのパトロンは大谷博のはずであるから、新生プロも同じように大谷博から資金が出ていたと思われる。さらに――

ちょうどその時期、経営難に苦しむ新東宝は日活の堀久作を会長に迎え入れ、再建策を検討する案が出され、新東宝と日活の関係は急接近していた。しかしその計画は東宝の横槍で頓挫。その結果、1953年2月、佐生正三郎社長が退陣し、田辺宗英が新東宝の社長に就任し、東宝色の濃い人事になる。田辺は撮影所もろとも新東宝を東宝に吸収させる腹づもりであったと言われている。

そうなると、松竹の禄を食む者が東宝と密接な関係になった新東宝で映画を製作するのは敵対行為ではないかという意見も松竹内部も当然起きる。星野とて痛くもない腹(?)を探られるのがイヤだったのだろうか、それともカモフラージュなのか、星野は『弥太郎笠』に次いで『ハワイの夜』を製作したあと、これを限りに東京プロを解散すると発表する(実際に東京プロが解散になるのは1955年)。

ともあれ、こうしたスターの引き抜き合戦は、やがて1954年の日活製作開始を前にして、日活が主役となって激化する引き抜きを防止し、日活を孤立させるため、日活を除く既存メジャー映画会社の五社協定成立で一応の決着をみることになる(のちに日活が加わり六社協定になるが、新東宝が倒産し、再び五社協定に戻る)。

佐分利信
この間、星野の盟友である佐分利信は、東映に招かれ、自らの監督・主演で『人生劇場 第一部 青春愛欲篇』(52年)、『人生劇場 第二部 残侠風雲篇』(53年)の二部作を星野傘下のスター(舟橋元、高峰三枝子、高杉早苗、杉狂児、三橋達也ら)と東映のオールスターの混合編成で映画化する。当初言われていた鶴田浩二は出演していない。撮影は芸研プロ時代から佐分利とコンビを組んできた藤井静が担当した。星野はこの二部作に企画で名を連ねている。佐分利は次いで『広場の孤独』(53年)を監督する。

鶴田浩二が主宰する新生プロは、東映と提携して鶴田主演で『薔薇と拳銃』(53年、志村敏夫監督)を製作したあと、1953年7月に解散。前後するが、1月6日には鶴田が大阪で暴漢に襲われるという事件もあった。その後、鶴田はフリーとなり、東宝を経て、東映で任侠映画の看板スターとして再び一時代を築く。

新生プロの役員であった兼松廉吉は、1954年2月、鎌倉でウィスキーと睡眠薬をあおって入水自殺する。43歳だった。直接には3000万円の借金に追われての自殺であったが、水の江瀧子によると(「タアキイ 水の江瀧子伝」、新潮社、1993年)、その借金は鶴田が作ったものだという。

一方の星野は、俳優ブローカーとして映画界から悪党呼ばわりされながらも、表立ったスター引き抜きからは手を引きつつ、再開した日活に新しく活躍の場を求めるのだった――

【以下続く】