コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 反共プロパガンダ映画を再見する【活字篇】第2回   Text by 木全公彦
ダモイ・トウキョウ
今回、エスパス・ビブリオで上映した『私はシベリヤの捕虜だった』は米国公文書館で発見されたタイ語のクレジットによるものだったため、そこに宇野宗佑の名前がクレジットされているのかどうかを知る手だてはない。だが1990年代中ごろにわたしが東銀座のレンタル・フィルム業者の試写室で見た16ミリ版は、日本語クレジットだったが、そこには宇野宗佑のクレジットはなかった。この16ミリ版は現在所在が分からなくなっているため、今一度確認することは困難だが、事前にこの作品の原案が宇野宗佑であることを映画史家の田中眞澄から聞いていたため、とりわけクレジットに注視していたから、確かにクレジットに宇野宗佑の名はなかったと断言できる。


映画館で挨拶する宇野宗佑

『私はシベリヤの捕虜だった』シナリオ
さらに確認するために、宇野の「ダモイ・トウキョウ」を入手して読んでみることにした。国書刊行会がシベリア抑留叢書の第1巻として1982年に再刊したものである。読んでみてすぐに困惑した。抑留者のありきたりなエピソードのつらなりで、映画『私はシベリヤの捕虜だった』の原作だといえばいえるし、違うといえばそうともいえる。どうもあやふやである。以前、さる理由があって従軍看護婦の手記をいくつか読んだことがあるが、派遣された地域と時期が同じであれば、内容にほとんど内容に大差がないなと思ったことがあるので、おそらくそういったものなのだろう。特に原作で印象に残るロシア人の女性軍医やロシア人将校、シベリア俳句会や軍法会議などは映画には登場しない。しかし、原作にある“コックリさん”は映画にも登場する。しかしこの程度のものであれば、原作といえるかどうか。

ところが、前出の「宇野宗佑・全人像」には、宇野宗佑のお膝元である滋賀の映画館で『私はシベリヤの捕虜だった』が上映される前に、舞台で挨拶する宇野の姿を映した写真まで掲載されているのである! うーん、わけがわからない。

前回、今回発見されたタイ語クレジット版が、手元にある撮影台本には書かれてある、現代の撮影隊がこの映画を撮影するために北海道でロケをしてキャメラを回しているという、プロロ-グとエピローグがなくなっていることを指摘した。同時に、にもかかわらず、上映分数が当時公開された分数と変わっていないことに疑問を呈しておいた。結局、台本にあるプロローグとエピローグは撮影されなかった可能性があるが、もしかしたら、映画を公開する前に、宇野宗佑がプロローグとエピローグを削除するように要請したとも考えられる。これがあるとどうしてもキャメラマン藤井静の回想という形が強くなってしまうからだ。もしそうだとしたらずいぶん乱暴な話である。そう考える根拠は前出の評伝に次の記述があるからである。

「三カ月ほどして、守山の大黒座にフィルムが回ってきた。地元での上映だから、もとより前評判は高い。宇野は大黒座の経営者「治三はん」と入念な打ち合わせをした。と、宇野家でのその打ち合わせのさなかである。長司(引用者註:宇野の父)が突如、割って入ってきて大声を上げた。/「おい、おまえ、あの映画をそのまま上映するつもりか」/宇野はけげんな顔で「もちろんです」と応答した。/「そうか。うむ。上映は仕方がない。しかし、一カ所カットせい!」/「そんな無茶な。無断でフィルムをカットなんかそたら商品の棄損罪になります」/長司の怒気がだんだん強くなっていく。/「いいや、駄目だ。ワシはおまえのようなバカ息子を持った覚えはない」/「何のことやね。もっと冷静になって言ってください」/「よし、でははっきり言おう。口に出して言うのも畏れ多いが、ナホトカの部分をカットするんだ」/「ええ?」/「あそこに『天皇制打倒』と書いたビラが張ってある。電信柱に。なぜ共産党の宣伝をするんだ。しかもおまえの故郷で」/「しかしお父はん、ナホトカのことはありのままを撮ったんです」/長司は怒り出したら止まらない。/「それがいかん。もし『宇野宗佑打倒』と書いたビラを映画に撮って、全国で上映されたら、おまえ、どんな気持ちがするか。天皇陛下のお気持ちが分からんのかッ」/そこまで言われると、宇野も弱い。(…)結局、宇野はナホトカの一部分をカットしてもらって上映に持ち込んだ。大黒座の上映期間が終わると、再びカットしたところをつないで次の映画館に渡したものである」(前出「宇野宗佑・全人像」)

宇野のいうナホトカの場面の張り紙は、現在のタイ語版には映っている。だが地元での上映だけに限るとはいえ、映画の一部をカットしたという事実は、事前にプロローグとエピローグを削除させたとも考える根拠ともなる。いずれにせよこれはグレー部分である。