『嵐の青春』
前出の記事の元になった報告書をパブリック・ディプロマシー(広報文化外交/戦略)の点から読み解いた渡辺靖は、USISが関与した作品として、前出の春名幹男の「秘密のファイル」を参照しながら、《映画では、『私はシベリヤの捕虜だった』(一九五二年)、『嵐の青春』(一九五四年)、『湯川物語』(一九五五年)、『ジェット機出動 第一〇一航空基地』(一九五七年)などが、ラジオでは、『アメリカ便り』、『私の本棚』、『小説朗読』、『シンフォニー・ホール』、『ジャズ・クラブ』、『ペリー・コモ・ショー』、『ナット・キング・コール・ショー』などがそうである。》(「アメリカン・センター アメリカの国際文化戦略」、渡辺靖著、岩波書店、2008年)と記述している。
『湯川物語』というのは調べてもよく分からないが、『嵐の青春』(54年、志村敏夫監督)という作品はある。中井プロが製作した作品で、製作は中井金兵衛という人。どうやらちゃんと製作した映画はこれ一本だけで、英語が達者で、本業は戦地で撮ったフィルムを日本に輸入する仕事をしていた人らしい。配給はそういうヘンテコな外道に好んで手を出す新東宝。監督・志村敏夫、脚本・沢村勉、撮影・岡崎宏三というスタッフの顔ぶれは、2年前の『私はシベリヤの捕虜だった』を継承するものだろう。フィルムが現存しているのかどうか不明で未見だが、あらすじを要約する。
帝都大学生・佐藤啓二(沼田曜一)は、徹夜で新聞社の発送係をアルバイトしながら警官の借家を借りて妹と一緒に暮らす苦学生である。佐藤は同じ大学の女子学生で教授の娘・志村幸子(遠山幸子)に思いを寄せていたが、幸子の兄でクラスメートの達夫(佐伯徹)や、母校の野球部の主戦投手・千葉(舟橋元)たちの曇りのない青春に引け目を感じていた。佐藤は幸子に志村家のパーティに誘われるが、そのパーティが幸子と千葉との婚約披露でもあったことを知り、いたたまれなくなり、その場を飛び出した。次第に佐藤は関屋(片山明彦)や滝(高野真)の政治活動グループに接近し、組織に加入する。だがメーデーに参加し、警官と衝突して重傷を負った。それ以来、私服刑事の尾行が始まった。だがもっと恐ろしいのは彼等の行動を常に監視する細胞の目だった。関屋は派出所襲撃に駆り出され警官の拳銃に倒れた。佐藤と滝にも某代議士暗殺の指令が来た。しかし佐藤の最後の良心が時限爆弾の真管を抜くのを止めさせた。その留守に細胞の地下本部が急襲され、代議士暗殺に失敗した佐藤と滝は裏切者として監禁された。そこを脱出した二人だが、滝は追手に刺された。母校の野球部合宿に逃げこんだ佐藤は、スクラムを組んで追手と戦う千葉や皆の活躍によって救われる。
50年代のハリウッドで製作された反共プロパガンダ映画によく似たストレートな反共映画である。主人公が貧困ゆえに地下活動をする暴力革命組織に加わるというのは、類型的だがそれを沼田曜一が演じるとなると俄然見たくなる。だが『嵐の青春』といえばレーガン元米大統領がまだロナルド・リーガンというワーナーの俳優だった頃の、サム・ウッド監督の1941年作品を思い出しこそすれ(偶然にもサム・ウッドも、レーガンも、バリバリのタカ派反共主義者である)、日本映画でそんな映画があることすら知らなかったのだから、大したことがない作品なんだろうが、まあ機会があれば見てみたい。ロケに使われたのはなんと青山学院(!)というのも興味をそそる。
ちなみに、日本共産党は1951年10月の第5回全国協議会(五全協)で「民族解放革命」を推進する新綱領を採択し、武装闘争方針を具体化させていた。これは1955年7月、第6回全国協議会(六全協)で自己批判されるまでの間、共産党は地下活動として武装闘争を推し進めていたから、この映画で描かれる組織とは、名指しこそされていないようだが、暴力革命を遂行する共産党であることはいうまでもない。