座頭市の影響と亜流作品
「座頭市」の人気は国内だけにとどまらなかった。アジアからヨーロッパ、果ては北米大陸から中南米まで、世界中にその人気は広がった。1960年代、世界を風靡したイタリアのスパゲティ(マカロニ)・ウエスタンでは、視力を失っていくガンマンが活躍する『ミネソタ無頼』(64年、セルジオ・コルブッチ監督)や盲目のガンマンが主人公の『盲目(めくら)ガンマン』(71年、フェルディナンド・バルディ監督)という異色作が作られた。キューバではフィデル・カストロ以下国民中が座頭市に熱狂し、勝新太郎はキューバを訪れた際、国賓並みの待遇を受けたお礼に、得意の三味線を披露した。
とりわけ、中国語圏の国では、「盲侠」という名で知られた座頭市の人気は、クロサワ時代劇と比肩するものがあった。武侠映画の巨匠・胡金銓(キン・フー)の『大酔侠』(66年)には、穴の開いた小銭を投げるとヒロインが箸で次々と受け止めるという曲芸めいた場面がある。これについて胡金銓は、座頭市シリーズは見ているが、それを意識したわけではないと発言しているが(『キン・フー武侠電影作法』草思社)、胡金銓の『残酷ドラゴン 血闘竜門の宿』(67年)の曲斬りしたロウソクを刀の上に乗せて相手に突き出す場面、『迎春閣之風波』(72年)のサイコロ賭博(いわゆる〝チンチロリン〟)のイカサマを暴く場面を見ると、本人が否定しようとも「座頭市」の影響を感じずにはいられない。さらに、もう少し下の世代の侯孝賢(ホウ・シャオシェン)は、インタビューで「子供の頃はテレビをつけるとどこのチャンネルも「座頭市」ばかり放映していた」と発言しているし、『カンニング・モンキー/天中拳』(78年、チェン・チー・ホワ監督)では、ジャッキー・チェンが座頭市の真似をする場面があった。
中でも極めつけなのが、ブルース・リー登場以前のクンフー映画の大スター、王羽(ワン・ユー=ジミー・ウォング)監督・主演の『片腕必殺剣(独臂刀:どくひとう)』(67年)を第一作とする「独臂刀」シリーズだろう。座頭市の盲目であるというハンディキャップを片腕(”独臂„は片腕の意味)に置き換え、片腕のヒーローが活躍するという物語である。シリーズ第1作は香港映画史上初の100万ドルを超える興行収入をあげ、大ヒット。シリーズの一本『片腕ドラゴン(独臂拳王)』(72年)は、ブルース・リーによるクンフー・ブームに湧く1974年、日本でも公開された。
その『片腕ドラゴン』の日本公開に先立ち、中国語圏での「独臂刀」人気に目をつけた日本の映画人がいた。勝プロオーナーの勝新太郎である。アチラが分家なら、こちらが本家とばかりに、本家の「座頭市」シリーズの『新座頭市・破れ!唐人剣』(71年、安田公義監督)にジミー・ウォングを招いて夢の共演を果たす。クライマックスでは市の居合斬りとジミー・ウォングのクンフーの異種対決が用意された。市が勝つかウォングが勝つか、ヴァージョンの異なるラストはマニアの間で今でも語り草である。「独臂刀」シリーズは、その後、『新独臂刀』(71年)、『片腕カンフー対空とぶギロチン(独臂刀王勇戦血滴子)』(76年、ジミー・ウォング監督)、『ブレード 刀』(95年、ツイ・ハーク監督)などの続篇、番外篇、リメイクなどへとさらなる展開を見せ、模倣品が数多く作られた。それらの中には勝新太郎のそっくりさんが登場するものもある。
一方、日本でも多くの亜流が登場した。大映では丹下左膳が女だったらという設定の「女左膳」の3度目の映画化『女左膳・濡れ燕片手斬り』(69年、安田公義監督)を製作し、女左膳を安田(大楠)道代が演じたが、松竹では『座頭市』の女性版『めくらのお市・真っ赤な流れ鳥』(69年、松田定次監督)を第1作とするシリーズ全4作を製作。盲目の女性ながらも逆手居合斬りの名手を演じた松山容子の美貌もあり、意外に人気が出て、1971年にはNTV「めくらのお市」としてテレビドラマ化もされた。勝プロでは、テレビ作品の第1作として若山富三郎主演でハンディキャップ時代劇『唖侍・鬼一法眼』(73~74年)を製作する。
そしてハリウッドでも『座頭市血煙り街道』(67年、三隅研次監督)を正式にリメイクした作品が登場する。『ブラインド・フューリー』(89年、フィリップ・ノリス監督)がそれである。ここではルドガー・ハウワー扮する主人公はベトナム戦争で失明したという設定。そして彼は、現地民に居合抜きを習って、アメリカに帰国するが、いざこざに巻き込まれるという物語になっていた。幕府ご禁制の美術品が麻薬になっていたのは、いかにもアメリカらしい。なお、ルドガー・ハウワーは居合斬りの研究のため和食レストラン・チェーンのベニハナに取材し、派手なナイフさばきを研究したそうだが、実際、アメリカの日本映画通の間では、ベニハナのパフォーマンスは座頭市の殺陣を連想させるらしい。これがホントの“座頭市海を渡る”である。