コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 三國連太郎『台風』顛末記 【その4】   Text by 木全公彦
エピローグ
『松本清張アワー』には原作の選択やキャスティングなどに対して三國の意見も強く反映されたようで、三國は〈最高に面白く、質のいい13本をつくります。そのために、ディレクターと一緒になって脚本家やタレントの交渉にあたりました。必ず喜んでいただけると思います。〉(「週刊TVガイド」1965年10月5日号)と意気込みを述べた。

したがって、脚本家に『台風』の脚本を執筆した春田耕三の名前があるのも、三國の推挙によるものだろう。この後、『松本清張アワー』は衣替えして、1965年1月11日から同枠で松本清張原作の1話完結の新シリーズが始まり、今度は毎回主演の俳優が変わるというスタイル(全18回)になるが、そこには三國は出演していない。しかし春田耕三はそこでも何本かの脚本を書いている。春田が脚本家デビュー作として執筆した『台風』の脚本は、何度も改稿させられ、撮影中に改竄され、やっと完成した映画はお蔵入りになり、切り刻まれ、ひっそりとピンク映画として封切られた。『松本清張アワー』への起用は、そうした春田へのせめてものの三國からの感謝の印だったのだろう。だが春田はそのチャンスを生かすことはできなかったようだ。ほかの映画やテレビドラマに春田耕三の名はない。彼もまた『台風』騒動に振り回された被害者の一人なのかもしれない。

ちなみに、この『松本清張アワー』に主演する三國が相変わらず役に入れ込み、周囲から変人・奇人扱いされるさまを、竹中労が紹介している。 〈65年、関西テレビ“松本清張シリーズ”の録画中、浮浪者の心理研究と称し、ザンバラ髪のオンボロ衣装で深夜の街をうろつきまわり、アベックをおどかして交番に駆け込まれ、あやうく逮捕されそうになる。また別の番組では、マンジュウを食うシーンが気に入らずテストを繰り返して、とうとう18個も食ってしまった。〉(「放浪魔人・三國連太郎」~竹中労著「芸能人別帳」、ちくま文庫、2001年)

以上で、三國連太郎『台風』顛末記は終わる。

最後にちょっとしたエピソードを披露したい。今はもうない配給会社・シネセゾンがジョン・カサヴェテスを連続上映したことがあった。1993年のことである。わたしが京橋にあるシネセゾン試写室(現在の京橋テアトル試写室)に『こわれゆく女』(73年)を見に行き、いちばん前列の席に座ると、わたしの隣に三國連太郎が座った。聞こうと思ったわけではないが、耳に入ってくる配給会社の担当者との話はなかなか興味深いものだったが、それはプライベートに関わることなのでここでは書けない。その日から連日、三國はカサヴェテスの映画を見にいらした。「ベルイマンとカサヴェテスとどちらが好きですか?」とか「『台風』は三國さんの初プロデュース作品で初監督作品だから、実は密かにネガは持っていらっしゃるんじゃないですか?」などと、わたしは質問したくてウズウズしていたが、今日に至るまでその質問はしていない。そのことを心残りに思うばかりだ。

(この項、完結)