配給で頓挫する
1965年1月、三國連太郎は完成した『台風』の配給する約束を事前にしていた東映で試写を行うが、東映側からは色よい返事を得られなかった。東映は配給を断った理由として、当初示されていた内容と完成した作品とが大きく違っていたこと、作品の質が水準を満たすものでなかったことを挙げた。確かに巨大台風に襲われ、孤立した村に住む村人たちの極限的状況と、そこに救援物資を運ぼうとする運送業者たちの必死の努力を描くとされたはずの映画は、プロデューサーを兼任する監督・三國連太郎の思いつきでどんどん内容が変わっていき、村を牛耳る有力者と貧しい村民との対立、内輪揉めという物語になってしまったことは、すでに書いたとおりだ。ここまで大きく内容が変わってしまっては、いくら事前に約束を取り付けていたとはいえ、配給を断られても仕方がないだろう。
だが、東映側としてはそもそも自社の契約下にある俳優が独立プロを作ることは認めていなかったのだから、三國が日本プロを創立したことをあまり歓迎していなかった。それだけでなく芸術祭に参加予定であった大作『飢餓海峡』の撮影が遅れたのも、三國に大きな責任があるわけだし、東映としては三國にお灸をすえる必要があったかもしれない。だが三國も東映との契約は他社出演も認める本数契約であるから、他社出演もできるとばかりに、『台風』配給の交渉を有利に運ぶために、この時期にやたら他社出演に秋波を送り、他社出演の可能性についてマスコミを通じてほのめかしたことは、具体的な作品名を挙げて
前回触れたとおりだ。しかしそれでも東映は『台風』を配給することを断ってきた。仕方なく三國自ら配給を取り付けるべく松竹や日活などメジャー他社と交渉するが、これも実らなかった。弱体化したとはいえまだまだ五社協定が効力を発揮していた時代である。東映で拒否された作品の配給を、それもかつて自社に後ろ足で砂をかけるようにして辞めて、他社に走った五社協定違反第1号の俳優が独立プロで製作・監督した作品である。そう簡単に配給を引き受けるはずがない。結局、『台風』がメジャーで配給されるという可能性は絶たれた。三國はその責任をとって日本プロを退社することになり、莫大な借金を背負うことになった。
〈まず『台風』が公開中止になったいきさつだが、沢野社長(引用者註:日本プロ代表)は「結局、できばえが悪いんですね。日本プロとしても東映、松竹その他二、三のルートと交渉したんですが、どこもOKしなかった。またこの作品は日通との提携作品であるわけですが、運輸機関の重要性を描くというシーンがどこにもない。これは最初の構想からまったくかけ離れたもので、日本プロの良心からもこのまま上映するわけにはいかない」と公開中止に踏み切った理由を指摘している。これで製作期間約1年、製作費6,000万(注、日通が3,600万円、日本プロが2,400万円出資)をかけた『台風』は完全にムダとなり、三國連太郎が監督としてかけた野望もいまではフィルム倉庫の一隅も葬りさられ、日の目をみることがなくなったわけ。「高い授業料でした。しかしこのまま引き下がったのでは実業家としてのわたしのプライドが許さない。そこで新しく作り直すことになったのです」と沢野氏。「日通との契約が残っているのでこんどの作品も運輸機関の重要性をテーマにした劇映画です。いま3人のシナリオ・ライターに5本の脚本を書いてもらっています。そのうちでいちばん良いものを選んで7月末までにシナリオを完成、8月いっぱいに撮影して9月公開の予定です。主演スターとの交渉もすでにはじまっていますし、上映ルートも撮影開始前にキチンと契約します。前回失敗した点はすべて改めてやります」。主演スターの候補は仲代達矢、池部良、三木のり平、西村晃などで配給ルートとしては松竹が有力。そこで問題になるのが三國と日本プロとの関係だが、沢野氏は「三國さんはいまでもウチの役員ですが、会社に莫大な損害をかけた以上、商法上からもおもわしくない。こんごは絶縁します」と語っている。こうして過去一年間、数々の話題を残した『台風』も公開中止というかたちで終止符が打たれ、日本プロは再スタートの段階に入った。〉(「日刊スポーツ」1965年5月14日付)
〈【三國連太郎の話】 『台風』は自分としては全力をつくして作った作品です。ただ上映ルートの問題がどうしても解決しないので、責任を感じ、日本プロに辞表を出した次第です。公開中止になったのは実に残念ですが、それしか方法がないというならそれもやむをえないと思う。〉(前出「日刊スポーツ」1965年5月14日付)