コラム 『日本映画の玉(ギョク)』
鈴木英夫<その15> 『九尾の狐と飛丸』をめぐって[後篇]   Text by 木全公彦
プロダクション・ノート
当時の国産長篇アニメーションの製作現状からすれば、このような規模のアニメーションが製作できる能力を持った会社は、東映と虫プロだけだったはずである。そんな環境の下で設立したばかりの独立プロが長篇アニメーションを製作することは暴挙に近い。それを可能したのは、中島源太郎の人脈と、杉山卓をはじめとする、すでにアニメ業界で重要な仕事を担ってきたスタッフの力によるところが大きい。杉山によると、「当初立ち上げの軸になったのはTCJ(のちエイケン)で、その映画部に村田さんという部長がいらして作業の中心を担った」という。作画監督を担当した杉山が旧東映動画や虫プロから優秀な若手を引っ張ってきたということも大きかった。「その当時はみんな若かったけど、このときのスタッフの7割方がのちにいい仕事をするようになりましたね」という。

キャラクターも作画も、すでに当時の主流になっていたマンガ風にデフォルメされたものを避け、写実的で、日本式様式美を狙って作られ、日本画調の美術設定とあいまって、本格的な王朝物を目指した。とくに玉藻は日本的な美しさの中にオリエントのエキゾチズムをたたえたキャラクターとして創造され、十二単もなるべくリアルに、襟元の線だけでも8本、それぞれ線の色まで変えて仕上げられている。それが何万枚のセル画で描かれていくのだから、気の遠くなる作業だったに違いない。ましてや安部泰成と玉藻の祈り比べの場面では、6千人もの大群衆が登場するモブシーンになるともなれば、ただでさえコスチュームだけでも大変なのに、と想像を絶するものがある。

色彩担当は、東映動画美術部に在籍した影山勇である。藝大で日本画を専攻した経験を生かして、物語にふさわしく、日本画調をもとにした影と色彩と線の微妙な統一で構成。水の動きには実写と特撮を絶妙に交錯させ、夜景は人物と背景のトーンを撮り分け、背景による四季感を出すことに力を注いだ。炎の色と動きは、作画監督の杉山が何種類もの炎を描いてペーパーテスト(紙に鉛筆で描いたものを撮影)で動きを見て、それでOKになると美術監督の影山勇が色を決めて、彩色の担当者がセルに色見本を塗って、キャメラマンの岸本政由が撮影して効果を試してから、本番の作業という形が繰り返された。

動画ではライヴアクションが使用された部分もある。忠長が関白になったときの祝宴の場面では、東宝芸能学校から5人の女生徒を呼び、十二単と衣を着させて、鉄仙会の能舞台で踊ってもらったものを撮影し、その動きを分析してアニメーションの参考にした。キャラクターに塗る色は、当時のアニメーションでは通常30色、多くて50色のところ、この映画では150色から170色も使用しているという。確かに、今見ても、当時のアニメーションにしては色ははるかに鮮やかで、動きもスムース、という感じがする。

セル画の撮影は六本木の事務所の地下にあるスタジオと柳田久次郎をチーフにするTCJの撮影部で行われた。10分に一度ヤマ場が来るような早いテンポにしたのは、テレビの15分番組の場合、3分間のコマーシャルがあって、正味は12分とすると、子供たちは6分間に一度のヤマ場に慣らされていることから計算したのだという。終盤の玉藻が巨像から抜け出して、途中狐に姿を変えながら那須の高原に舞い戻る場面は、1分10秒のロングカットで映し出される。このカットだけで撮影に1週間かかったそうだ。

映画の冒頭には、那須の景観と史跡〈殺生石〉の実写が映し出される。1967年秋ごろに二度にわたって那須ロケが行われた。脚本の吉岡道夫は、中島から執筆依頼されてからまもなくの時期に、中島や岸本らと史跡をめぐってイメージをふくらませたという。

声の出演で、ヒロイン玉藻の声は、20人の候補から選ばれた。那須時代の清純な玉藻と、悪魔の魂を吹き込まれてからの京都での玉藻の声は、それぞれ別人が演じることが考えられたが、オーディションの結果、青年座の東恵美子が一人で演じ分けることになった。またそのほかに文学座、民藝、青俳など、新劇から声優がキャスティングされた。

「九尾の狐と飛丸」完成披露パーティ進行台本
約2年にわたる製作を終え、1967年4月に完成した『九尾の狐と飛丸』は、その年の11月17日、東京ヒルトン・ホテル竹の間で午後1時30分から完成披露パーティが行われた。司会はフリーのニュース・キャスターで、当時はフジ「3時のあなた」の司会だった木元教子が務め、中島の挨拶のあと、試写が行われた。その後、木元の司会進行で、中島、岡本経一、鈴木英夫、増村保造、吉岡道夫、杉山卓、岸本政治、池野成らの挨拶へと続く。そのまま午後3時からはパーティとなった。