スタアの虚実
『ある女の影』は、スタジオセットで撮影された現在時制がビデオ撮り、過去時制が16ミリのフィルム撮りで、時制に対して使用するメディアも変えて撮影された。重層的な構造の物語を、メディアを変えて描き分けるという方法論はかなり野心的な試みだが、それはヒロインが女優であることで、彼女自身と彼女が演じるスクリーン上の役と入り混じり、彼女が演じる役と実際に起きた過去(または捏造されたものかも知れない曖昧な記憶)の虚実の不確かな虚構性を強調する。このような構造のシナリオは、「開かれた映像」(現代ジャーナリズム出版会刊、1970年)などの著作で<閉じたドラマ>より<開いたドラマ>の可能性を説く大山勝美にとって、やりがいのあるものだったに違いない。いったいなにが真実がはっきり示さず、ラストは推理小説でいう結末を暗示するだけで読者に考えさせるリドル・ストーリーになっている。
本作で滝村を演じた入川保則、最上はるみを演じた弓恵子は、その後、吉田喜重と岡田茉莉子が設立した現代映画社の第一作『水で書かれた物語』(65)にも、岡田茉莉子の推薦もあって再び出演を果たすことになる。
『ある女の影』に見られるような時制が入り乱れ、虚実の境界が溶け合うストーリーは、『水で書かれた物語』以降の吉田作品に顕著になる話法である。それは『エロス+虐殺』(70)や『煉獄エロイカ』(70)でさらに顕著になる。岡田茉莉子自身が女優を演じ、役を生きる女優の虚構性が前面に押し出された物語は『告白的女優論』(71)で反復されることになるだろう。
当時、『ある女の影』を見た評論家の江藤文夫の文章。
「花森晶子、本名は森晶子である。
といっても実在の女優ではない。テレビドラマ『ある女の影』の主人公である。岡田茉莉子がこの女優を演じた。65年2月5日に放送されたこのテレビドラマは、これまでに私の見た数多くのテレビドラマのなかで、おそらく五指のなかに入る、すぐれたドラマだった。脚本吉田喜重・演出大山勝美である。
ドラマは、女優花森晶子のクロース・アップで始まる。といっても、彼女の素顔ではない。スクリーンに映った映画の一コマである。本人は、試写室の椅子に腰をおろして、スクリーンに映った自分の演技を見ている。
トップシーンで、一人の女優と、彼女が扮している役の人物と、二つの顔が映される。スクリーンに映った自分を見ている彼女の表情に、一人の女優の、イメージと本人との関係が暗示される。両者は一体のものなのか。
次のシーン。試写室を出てきた彼女は、廊下のベンチに腰をおろし、タバコに火をつける。彼女の背後に大きなポスターが貼られている。映画女優花森晶子のポスターである。しかし、その前に立つ彼女は、何の感動も示さない。日常見慣れているからか、スターとしての身分にすっかり慣れ切っているからか。
だが、ベンチに腰をおろしタバコに火をつけるという、彼女のごく日常的な動作を前にすると、背後の大きなポスターは、何か彼女自身から遠く離れてしまったもののように見えてくるのだ。また逆に、映画スター花森晶子を大々的に売り出しているこのポスターは、その前に立つ本人をのみこんで、その実在をさえ打ち消してしまうものであるようにも見える。ここでは、本人とそのスター・イメージが対立し、相剋している。しかし、このように二つに分かれていく自分を、彼女自身は何とも思っていないようだ。
二人の花森晶子。ポスターの前とポスターのなかと。しかし彼女は、自分とちがう存在になってしまっている。"自分"を、平然と受けいれている。ポスターのなかにいる"自分"を、その体内に深く浸透させてしまっているのだろうか。あるいはもう、ポスターの前に立っているのも、ポスターのなかと同じような、スター花森晶子であるのかもしれない。本名の森晶子は、日常生活のなかでも、消え失せてしまったかのようである。
スターは花形役者である。本名の森晶子に花の一字を足してスター名を作ったこのドラマのネーミングも、なかなか味のあるものだが、冒頭の二つのシーンで、スターのある状態が、みごとにとらえられている」(江藤文夫「スター そのイメージと本人の間」、毎日新聞社刊、1968年)
ポスターとその前に立つ実像との乖離やズレは、吉田の監督第二作『血は乾いてる』(60)でもすでに描かれていた。それは『鏡の女たち』(2003)の中で突如運び込まれて観客の視界を遮る原爆のキノコ雲の写真に発展するだろう。
繰り返すが、本作を含め「岡田茉莉子アワー」は現存していない。だが不幸中の幸いで、TBSに音源だけは残されており、放送用テープから収録した武満徹のサントラは、CD+BOOK「武満徹全集5巻」(小学館、2004年)に収録され、発売された。本作の主題に沿って、ミステリ調のジャズっぽい曲が、フルート、アコーディオン、シンバル、ベースを使って奏でられている。
願わくば、どこかからひょっこりと当時のVTRも出てきて、ドラマ自体見ることができる日の来ることを祈るばかりである。