コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 やっとかめ、名古屋のマキノ(外伝)   Text by 木全公彦
幻のレジャーランド
と、ここで、再び東昌禅寺にある観音像に戻る。

その前に昭和ひとけたの道徳レジャーランドについて触れておこう。
マキノ中部撮影所の土地は、名古屋桟橋倉庫株式会社の所有するものだった。昭和初期には、このあたりにさまざまな文化・娯楽施設を誘致して、名古屋でも有数な繁華街として計画が建てられた。マキノ中部撮影所に土地の一部を貸与したのもその一環であったらしい。都市計画によって商業街にふさわしい区割りがされ、撮影所のほかに、常設映画館、芸妓置屋、温泉、水族館、料理屋、遊興施設が作られた。現在の寂れぶりから想像できないが、今もある「道徳銀座」という名称だけが往時の賑わいの痕跡を感じさせるものとなっている。

道徳観音滝とプール[1932年]

道徳観音山[1960年]

「泉楽園」案内図1

「泉楽園」案内図2
マキノ中部撮影所のあった道徳公園に隣接した土地には、名古屋桟橋倉庫株式会社が巨大な人工の山である道徳観音山を作る工事を開始した。山の頂上には高さ2mの台座の上に6mのコンクリート製の揚柳観音像が作られた。作者は後藤鍬五郎。頂上には展望台があり、そこから伊勢湾が見渡せる。その頂上からは高さ10mの人工の滝が下の深さ40cmの円形のプールに注ぎ、山の中はくりぬかれて、中は当時では珍しいアイス・スケート場になっていた。その山のふもとにもう一体のコンクリート製の観音像があった。それが現在、東昌禅寺にある観音像である。このアミューズメント・パークは1928年に工事が着工し、1931年に完成する(道徳観音の開眼式が行われたのは1936年)。ちょうどマキノ中部撮影所の創立から閉鎖までと時期が一致する。1930年代にはけっこう賑わっていたらしい。

戦争が始まると、当然のことながらこうした娯楽は自粛の憂いをみて次第に往年の賑わいを失せ、戦後は製氷会社に貸し出されたあと、廃墟として長い間放置されていたらしい。そして1964年に桟橋倉庫株式会社が解散し、道徳観音山は取り壊しになってしまった。まさに夢の跡。山頂の揚柳観音は平和公園に移されたが、それもその後取り壊しになった。ふもとにあった観音像だけがようやく東昌禅寺に移管されたのだった。それが現在の道徳観音である。

また、昭和初期のほぼ同じ頃、道徳町に泉楽園という遊興施設が作られた。こちらも桟橋倉庫株式会社が東邦電力(のち中部電力)と組んで開発したものである。中京地方にはそれまで温泉というものがなかった。新東宝の二代目社長・服部知祥が長島温泉を開発するのは、戦後のずっとあとのことである。その件は、本コラム「ある日米合作映画の企画」でも少し触れたことだ。それで人工の温泉場を作ろうとしたのが、この泉楽園であった。20以上の客室と3つの風呂場、児童遊園場、小鳥園、養魚池、弓場、ビリヤード、卓球施設などが備えていた。その施設も戦災で焼失し、今はその面影もない。

というわけで、この道徳にマキノ中部撮影所ができたのは、ここを名古屋きっての娯楽都市にしようとする桟橋倉庫株式会社の目論見があったことが基になっていることが分かる。たぶん、竹本武夫が桟橋倉庫株式会社を経営する福澤桃介から声をかけられたのか、その反対に竹本が福澤に提案したものだと思われる。福澤桃介[ウィキペディア「福澤桃介」] は、日清紡績、大同電力(のち関西電力)、東邦電力(のち中部電力)、東邦瓦斯、大同特殊鋼などを興し、「電力王」と呼ばれた財界の巨人で、名古屋発展の礎を作った人である。彼は愛知電気鉄道(のち名鉄)の経営者でもあったが、宝塚を作り、東宝を作った阪急の小林一三のように、電車と映画撮影所とアミューズメント・パークをうまく結びつけようとしたのだろうか。たぶんそれはうまくいかなかった。ただ戦前のほんのいっときのことではあるけれども、名古屋の観光地としても、撮影所で働く人たちのためにも、それらの遊興施設や飲食街は機能したであろうことも想像できる。

記念スタンプ[1928年]
道徳・大江近辺というのは、私が子供の時分でもずいぶんうらぶれた印象の強い地域である。まるでなにもない町という印象が強い。実際、北区の住宅街に住む私の家族は誰ひとりとしてこちらの方面には来たことはないと言っていた。学校区のある道徳町から少し離れて隣駅の大江駅には、1970年頃に大江劇場という実演用のステージ(通称でべそ)を備えたピンク映画館があった。大江劇場は70年代半ばには京都のストリップ興行グループDX系の系列のストリップ劇場「DX大江劇場」と衣替えをし、関西風の過激なストリップで一部のマニアには有名な劇場になっていた。70年代の終わりに高校の期末試験が終わった自分へのご褒美として行ったことがあるが、普通のストリップ劇場は「本番マナ板ショウ」は一公演中1回がせいぜいなのに、3~5回もマナ板ショウがあり、虚弱体質の私はそのあまりにもエゲつなさに辟易して退散したことは、本コラム「ピンク映画と実演 名古屋死闘篇」にも書いたとおりである。その頃から場末感が強かったが、2年前にたぶんそれ以来(30余年ぶり!)の道徳・大江方面を探訪してみて、今度はシャッター商店街となってしまい、町歩く人もまばらで、戦前の賑わいはまったく想像だにできない。時の流れは残酷なものである。

*参考文献
「写真で見る道徳の昔と今」(加納誠著、私家版、2008年刊)
「近代史を飾る コンクリート製彫刻・建造物職人 後藤鍬五郎」(加納誠著、私家版、2003年刊)
「回想・マキノ映画」(非売品、1971年刊)
「オイッチニーのサン」(高野澄著、PHP研究所、2008年刊)