コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 ガミさんの遺言   Text by 木全公彦
日活ポルノ裁判のエリア・カザン
梅沢薫が地裁に検察側の証人として出廷したのは1974年6月5日のことである。
「日活関係の三作品は村上覚、黒沢満ら企業側とともに監督も起訴されているが、プリマ企画の製作になる『女高生芸者』については、プロデューサーの渡辺輝男だけが起訴されただけで、監督の梅沢はなぜか不起訴処分になっている。『女高生芸者』だけが、監督“不在”のまま法廷にひきずり出されているのだ。/梅沢も摘発直後、検察庁へ出頭させられた時には、被疑者として供述書をとられた。しかし起訴はされなかった。検察官がどんなことを梅沢から聞き出し、その供述を根拠に、被告たちをいかに巧妙に有罪にしようとしているかが、供述調書をくりながらの梅沢への尋問で明らかにされた。尋問の手口は実に巧みである。だからこそ、捜査の段階でも検察官の前ではヘタなことは言えない。ゆめ“ゲロ”するようなことがあってはならない。梅沢薫証人の尋問が終わったあと、傍聴席から、『あいつゲロしやがった』というつぶやきが起こった。私(註:斎藤正治)は検察官の尋問中にこう思った。『不起訴になったかわりにゲロしやがった』」(「日活ポルノ裁判ルポ」)

裁判の公判記録を読むと、梅沢薫は検察側の誘導尋問によって自らの作品についてだけでなく、山口清一郎の『恋の狩人』について「ワクを越えている場面があるとは言った」と証言し、他人の作品について同じ作り手の立場から言わなくてもよい意見を供述していたことが明らかにされる。斎藤はこの点について梅沢を弾劾する。「被疑者として取り調べられた際、いろいろ供述してしまった。ゲロしたから、起訴猶予になったかどうかは知らないが、そのときの“自供”を巧妙に利用する検察の手口はきたない。それが裁判というものだろうが、梅沢薫も、他人の作品にまで口出しする必要はなかった。山口清一郎の『恋の狩人』をワイセツと供述するなど論外である。この一点で、梅沢は激しく責められていい。ピンク映画で頑張っているこの若い監督を人間的に惜しむ」(「日活ポルノ裁判ルポ」)

検察側の証人として登場した梅沢薫の証言によって「ワクを越えている」と指摘された『恋の狩人』を監督した山口清一郎がどんな思いで、その証言を聞いたかは、梅沢薫も山口清一郎も死んだ今は知る由もない。当時、斎藤正治のルポ「日活ポルノ裁判ルポ」のキネ旬連載を読んでいた若い読者たちは、「日活ポルノ裁判を考える烏合の会」と称するグループを結成し、公判を傍聴しに行った。そのメンバーのひとり、鈴木義昭は、のちに山口清一郎への聞き書きを中心にした書籍「日活ロマンポルノ異聞――国家を嫉妬させた映画監督・山口清一郎」(社会評論社、2008年)を上梓した。

この本の中で、日活ポルノ裁判を通して山口がどのような論陣を張って裁判を闘ったのかは明らかにされるが、もっと生臭いところ――すなわち、梅沢薫に対する感情的なことや、『恋の狩人』以降、出した企画はことごとく通らず、日活の中でも孤立していったときの山口自身が抱えた苦悩や生活について、また誰が味方で誰が敵なのか、裁判闘争の中で田中真理との恋愛関係はどうなっていったかなどはほとんど語られずにいる。しかし、かと言って、裁判の内容や猥褻についての定義について、私自身がこの場で語るには、準備も誌数も足らないので勘弁させていただくとして、摘発されたあと、ピンク映画から足を洗って黎明期のアダルトビデオの世界に方向転換をし、映像メディアの可能性を切り拓いていった代々木忠を一方に、その後もピンク映画を撮り続けた梅沢薫をもう一方に置きながら、沈黙せざるを得なかった山口清一郎の痛恨は察してあまりあるとだけ書いておこう。

日活ロマンポルノやピンク映画を見始めたのは、高校に入ったばかりの頃で、未成年の不良行為として補導されることから逃れるために始終苦労しながら、映画館の暗闇でドキドキしながら映画を見ていたことは何度もこのコラムで記した。そんなドキドキも、『色情姉妹』(72、曽根中生)や『女地獄森は濡れた』(73、神代辰巳)が公開後すぐに打ち切られただの、『女教師・私生活』(73、田中登)が公開延期になっただの、『さすらいの恋人・眩暈』(78、小沼勝)や『順子わななく』(78、武田一成)が再審査されただといったニュースを聞くたびに、「もう見られなくなるかもしれない」と焦り、名画座に駆け付けた。『女地獄森は濡れた』を除き、名画座ではなんとか見ることができたのである。だが、斎藤正治の連載は読んでるだけで興奮したので毎号欠かさず熱心に読んでいたというものの、「日活ロマン裁判を考える烏合の会」に入会するにはまだ若すぎたし、まだ青鼻を垂らした童貞坊やではあまりに非力である。キセル乗車や万引で摑まるのがせいぜいだった。