映画の中のジャズ、ジャズの中の映画 Text by 上島春彦
第70回 人間国宝ジャズ 山本邦山追悼その8(最終エピソード)
横山勝也と「ノヴェンバー・ステップス」
ここで、山本邦山の著書「尺八演奏論」(出版芸術社刊)を引用したい。67年の尺八音楽を巡る状況を語る邦山である。

当時は、北原篁山、青木鈴慕、横山勝也、酒井竹保、宮田耕八朗などの皆さんが、尺八演奏家としてすでに、現代音楽でそれぞれの個性をもって活躍されていたので、自分は自分なりの違う道を求めたいという気持を持っていた。それで大きな転機となったのが、前述したとおり一九六七年に「原信夫とシャープス・アンド・フラッツ」とともにニューポート・ジャズ・フェスティヴァルに参加し、大きな反響を呼び起こしたことであった。これによってアメリカでは、一方はクラシックの《ノヴェンバー・ステップス》で、他方は私のジャズで、尺八がアメリカ中の注目を浴び、新聞でもかなり取り上げられて話題になり、随分意気が上がったのである。それが逆輸入されて日本の新聞にも載り、「尺八ブーム」といわれる現象まで起きたのであった。

既に67年のニューポートにおける邦山の意義は本連載第64回で語ってある。今回はそこから改めて現代邦楽と現代音楽(クラシック)の出逢いの成果を尺八という楽器、そして「ノヴェンバー・ステップス」を軸に見ていこうと思う。邦山自ら述べるようにその舞台はアメリカである。
私の文脈で整理しておくと、モンタレーのシャンカール、ニューポートの邦山、そこにニューヨークの横山勝也を並べたい、ということだ。即ち武満徹の「ノヴェンバー・ステップス」アメリカ初演における二人のソロイストの一人の尺八奏者である。67年11月、彼は琵琶の鶴田錦史、小澤征爾指揮のニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団と共にステージに立っていた。オーケストラは通常の楽譜だが、ソロイスト二人の楽譜は実は「図形楽譜」と呼ばれる現代音楽特有のもの。要するにいわゆる従来の邦楽の語法で捉えることは出来ない。琵琶の演奏方法に関しても武満と鶴田による新考案の部分もあることが知られ、つまりこの楽曲においては邦楽というジャンルを西洋の音楽にブレンドしたり挿入するというのではなく、西洋の楽器から見ると異質な存在である邦楽器を西洋音楽と「出遇わせる」というのがコンセプトだと分かる。

当たり前と言えば当たり前だが、武満は邦楽の作曲家ではなくあくまで西洋音楽の人なのだから邦楽へのアプローチもストレートではない。図形楽譜というバイアスを経る。しかしそれによって邦楽が洋楽的に翻案されるのではなくて、あくまで現代邦楽として立ち現れる。鶴田も横山もそうしたスタンスに共感したからこの音楽活動に参画したのだ。また聴衆の側からはそのようにして出現した邦楽が、厳密には異なるのだが「即興音楽」の変種と聴こえたはずだというのも大きなポイントである。横山自身の感覚ではこの楽曲がどう捉えられていたか。「武満徹を語る15の証言」(小学館刊)から引いておこう。

湖に張りつめた氷が、何かの拍子に亀裂を生じてプシューッというように、弦が一斉に鋭くピューッ鳴るようなところがある。なにか凍てついた氷が亀裂を生じて鳴らす声のような、そんなところがあるように私は思うんです。オーケストラの弦楽器でそういう表現をしているところがある。同時に優しいところはサラサラと、風が吹いてそこに木の葉が舞うような、そういう音のつぶやきがある。自然のざわめきであったり、叫ぶ声であったり、つぶやきだったり、《ノヴェンバー・ステップス》にはそういうところが多いですね。

西洋音楽(オーケストラ)を背景にした二人のソロイスト、琵琶と尺八奏者の「掛け合い」がこの楽曲の聴きどころである。横山はこうも語る。

鶴田さんとの演奏は、それは言ってみれば「戦い」だったですね。でもその戦いはいたわり合いの戦いでした。戦いが互いを斬り合うだけだったら楽だったんですけど、そこにはお互いを生かそうという、いたわり合いがありました。自分を生かそうとすることももちろんありますよ、でも、相手を生かそうとする切実な気持ち、そういうエネルギーが強かったのも確かですね。

この曲の独特な構成はソロイストとオーケストラの関わり方に現れるのだが、その点は後述する。邦楽器の奏者たる二人が67年のニューヨークにあってどんなことを感じていたか。こうも語る。

ニューヨークで《ノヴェンバー・ステップス》の初演が成功したら、私は死んでもいいと思っていました。神様が私の命を召すとおっしゃるならば、召されて結構ですから初演を成功させてくださいってね。初演前に四方拝ですよ。相談したわけでもないのに、鶴田さんも四方拝をしたそうです。鶴田さんもほんとうに命がけなんだなと思いました。今そんなことを言うと、時代がかって、何か格好つけて言っているように聞こえるかも知れませんが、私らはほんとうに命がけでしたね。

この時代のアメリカと日本の「差」とは、一言で言えば「1ドル360円」ということだ。現在の交換レートの三倍から四倍の差というのはそれだけでも大きい違いだが、変動相場制に切り替わる数年前の「1ドル360円」というのは、多分相当に不公平で、そうした差別的状況に甘んじていた時代の日本に特有の心理的「決死」感がここには読みとれるようだ。思えば日本人が自由に(一切の制限なしで)海外旅行が許されるようになったのは66年元旦以降だから、そこから数えればまだ二年も経っていないのである。こうした命がけの感じというのはこの二人だけでなく、邦山やシャンカールにも共通したものだったに違いない。