映画の中のジャズ、ジャズの中の映画 Text by 上島春彦
第69回 人間国宝ジャズ 山本邦山追悼その7
「伝説」のベーシストを探せ、の真実
ところで、やがて「銀界」へと結実することになる菊地とピーコックの出会いだが「定説」と事実は少しだけ異なる。定説(つまりこちらが間違い)の方はTBSラジオが作ったラジオ・ドキュメンタリー「伝説のベーシストを探せ」に基づくらしいが、ちゃんと真実を「銀界」のプロデューサー伊藤潔が書き残していた。
それによるとピーコックが来日していたのは既に69年6月には明らかだったのだ。バークリーを中退して帰国した菊地がその情報を伊藤にもたらし、さっそく二人はピーコックを探し始めたが、どこに居るのか分からない。まず京都を探したのも、そこに彼が居るという情報があったわけではなかった。結局見つからなかったのだがそれも当然で、彼は京都にはいなかったのである。
同年夏、ある晩の新宿ピットイン(日本一有名なジャズ・クラブ)に、演奏後、池田芳夫のベースに触らせてもらいたいと言ってきた白人がいた。彼はゲイリー・ピーコックと名乗り、プレイヤーとスタッフの前で即興演奏を披露するとあっさりと去った。誰もピーコックの顔など知らなかったがその見事な腕前から本人であるのは間違いなく、彼の現住所を誰も聞いていなかったのに気づいたのは彼が去った後だった。伊藤の元にその情報が報告され、次にいつ彼が現れるかじりじり待つこと数週間か数カ月、ついにピーコックがピットインに再び現れたが、彼は実は新宿西落合に暮らしていた。京都に移ったのはそのずっと後のようだ。こうして年も明け2月初頭録音されたセッションが「イーストワード」なのである。もっとも、菊地がピーコックとの共演によるアルバムを切望した際、ドラマーに想定されていたのは村上寛ではなく富樫雅彦だったとも言われる。
村上は48年3月14日生まれ。小川の「イーストワード」ライナーによると「1967年に本田竹彦トリオでプロ入りし、次いで菊地のセクステットに参加して注目を浴びている。」「まだ新人の域を出ていなかったもののこの大抜擢によってにわかに脚光を浴びる存在に躍り出た」ものである。皮肉と言えば皮肉だが、もしも69年初夏にあっさりピーコックの所在が判明して年内にセッションが実現していたら村上の出番はなかったはずだ。二月に録音がズレこんだために村上がドラムス担当になった、というのも年明け一月に富樫が負傷し(69年というのは誤り)現場からしばしリタイアしてしまったからだ。だが小川も書くように、ここでの好演のおかげで村上と菊地とピーコックのトリオが常態化し、さらに復帰した富樫もそこに加わるというゴージャスな形態も出来あがった。

ここで日本時代のピーコックのディスコグラフィを分かる範囲でまとめておこう。
出発地点は当然「イーストワード」でメンバー「菊地+ピーコック+村上」録音70年2月である。続いて「ハヴ・ユー・ハード?」“Have You Heard?”(SONY)、メンバー「ジャック・デジョネット(リーダー。ドラムス)+市川秀男(ピアノ)+ピーコック+ベニー・モーピン(サックス)」録音70年4月、これは聴いたことがない。凄いメンツで、しかしどんな音か全然イメージ出来ないのが逆にまた凄い。ただ後述するが、デジョネットがドラムスというのに着目しておいて欲しい。そして「銀界」。メンバーはもちろん邦山に「菊地+ピーコック+村上」録音70年10月。同年録音は以上。続いて「ヴォイセズ」“Voices”(SONY)、これはピーコック名義、従って彼のリーダー作二枚目になる。メンバー「菊地+ピーコック+村上+富樫雅彦」録音71年4月。富樫としては負傷癒えて復帰二枚目に当たるがそのあたりの事情は省く。次が「ペイサージュ」“Paysage”(SONY)、こちらは何と大御所渡辺貞夫のリーダー作に「菊地+ピーコック+村上+富樫」が全面参加、録音71年6月であった。このセッションの後、すぐさまトリオの新たなセッションが持たれ、こちらはアルバム「ポエジー」“Poesy”(UNIVERSAL)としてリリースされた。メンバーは村上が抜けて「菊地+ピーコック+富樫」録音71年6月と7月。そしてこの年はもう一枚「スポージン/ヘレン・メリル」“Sposin’ / Helen Merrill with the Gary Peacock Trio”(Think!)もある。歌手ヘレン・メリルのバックを受け持つのが「佐藤允彦+ピーコック+日野元彦(ドラムス)」のトリオ。録音71年10月。

という次第で山本邦山との因縁浅からぬメリルに話題が戻ってきた。メリルと邦山の出会いについては本連載第63回に触れてあるが、その後、「アフィニティ」“Affinity”(テイチク。ベイブリッジ)という共演盤があり、また邦山の晩年にも共演ライヴが実現したことは第67回に述べた。

このディスコグラフィをチェックすることで分かるのは、ピーコックの滞日時代の重要性である。最初期二枚のリーダー・アルバムを作ることで盟友菊地雅章を得た、ということ、さらに言えば佐藤允彦、富樫雅彦との出会いも同程度に重要だ。ただしその彼の滞日時代は結局正確にはいつからいつまでとすべきなのか、ディスコグラフィからだけでは確定できない。ピーコックが三枚目のリーダー・アルバムを作るのは、ずっと下って77年「テイルズ・オブ・アナザー」“Tales of Another”(ECM)である。昔は「ECM」という分かりやすい邦題で出ていたが評判すこぶる悪く(悪かったのは中身でなくタイトル)、結局、現在はこういうぶっきらぼうな横文字タイトルに落ち着いたものの、私は昔の邦題の方がまだましだったと思う。
それはともかく、ここに集まったメンバーがドラムスのジャック・デジョネットとピアノのキース・ジャレットであり、つまり83年から現在まで続くキースの「スタンダーズ」トリオの原型がこちらなのである。話題をそちらにつなげる場ではないので詳細は述べないが、滞日時代の二枚とはやはり印象がかなり異なる。また菊地とピーコックのコラボレーションは現在も継続中だが、それもこれ以上ここでは述べる必要を認めない。いずれ、彼らの仕事については稿を改めよう。