あけましておめでとうございます。今年は年賀状に「謹賀新年」じゃなく「寿保千春」と書いた。日本で確認された最古の年賀状の文句がこれだそうなんで。
昨年は健さんとブンタが相次いで亡くなる、という思ってもいなかった事態に多少気が動転したりした。東北人ブンタさん(広島出身じゃない)は311後の日本を憂い、俳優を引退して独自の活動を展開されていたそうだが。健さんは健さんで老いてますます盛んというか、映画人として第二のピークと言うべき時期だったと思う。ご冥福をお祈りします。本連載的には
『網走番外地』の音楽がらみでかすったことはあるが、正面から高倉健を語ったことはない。『夜叉』(監督 降旗康男、85)のフュージョンぽい映画音楽が佐藤允彦とトゥーツ・シールマンスだったりして(しかも主題歌は何とナンシー・ウィルソン!)切り口は幾つかあるのだが。またベーシストのチャーリー・ヘイデンCharlie Hadenが亡くなったのも昨年。追悼ばっかりの連載も淋しいものだが、このところの本コラムもまた邦楽尺八奏者で優れたジャズ・アルバムを数多く残した山本邦山の仕事を回顧するコンセプトであった。
菊地雅章とゲイリー・ピーコック
山本邦山がピアニスト菊地雅章に誘われてセッションを持ち、それをきっかけにして作ったのがアルバム「銀界/山本邦山」“The Silver World / Hozan Yamamoto”(フィリップス)であった。従ってリーダー名義は山本だが、音楽的には菊地のディレクションによるものとするべきである。既に一度引用しているが改めてもう一度その件を邦山著「尺八演奏論」(出版芸術社刊)から読んでおこう。
「君のサウンドを聴いて、俺は俺流にやれると思うから、一度一緒にやってみないか」と(私は菊地から)誘われた。その時も「尺八はやはり伝統の旋律を守った方がいい。尺八が古典本曲風にやって、バックを我々がジャズ的にやる」ということになった。それで、私はジャズというよりも殆ど古典尺八本曲のように吹いて、バックはそれを受けて展開し、次第にノッていって、尺八も古典本曲の旋律である陰旋法で即興演奏した。それが一九七〇年に出したLP「銀界」で、非常に新しく感じられたのか、爆発的に売れた。世界で数万枚が売れたという。邦楽界では考えられないことである。(略)アドリブのためのパターンも今では百ぐらいは覚えているつもりである。このパターンさえ持っていれば、ジャズだけではなく、どんな音楽にも対応できる。こうした経験が作曲する場合にも大いに役立っているように思う。
本アルバムのパーソネルを確認すると尺八の邦山、それに対するに菊地のピアノ、ゲイリー・ピーコックのベース、そして村上寛のドラムス。つまりジャズ的な形式で見れば管楽器をリーダーに、ピアノ・トリオがバックアップする形である。音楽監督が菊地だとしても、山本邦山に好きなようにやらせているのは明らかで、菊地のコンセプトは、古典的な型を伴った尺八ソロ(当然邦楽的印象になる)にトリオが臨機応変に対応することだと分かる。臨機応変に、とは要するにフリー・ジャズということだ。つまり邦楽とジャズの融合(フュージョン)、と一般的には言える。本盤が世界的に評価されたのもそれが第一の理由だと見当がつく。
「フリー・ジャズ」という言葉の意味や概念を本連載では特に定義づけることもなく使ってきた。その点についてまだここでは深入りしなくても良い。ただ、例えば邦山の依拠する邦楽の方法論での演奏にジャズが対応するとすれば、そこにきっちりと型が決まった正攻法のモダン・ジャズで合わせるというのは方法論的に無理なので、臨機応変にやるしかない、という程度の理解で結構。
前回では佐藤允彦、富樫雅彦を紹介したので、今回は菊地雅章との「銀界」のためのトリオについてまず述べよう。
このトリオ、実は単純に「菊地のトリオ」とは言えない性質のものだ。何故なら既に同じ三人のパーソネルで一枚の別なアルバムがリリースされていたのだが、そちらはリーダーがピーコックなのである。1970年録音「イーストワード/ゲイリー・ピーコック・トリオ」“Eastward / Gary Peacock Trio”(SONY)。アメリカの最先鋭のベーシストと日本の気鋭ピアニストの音楽的出会いを捉えた70年代ジャズの名盤である。本盤のライナーノーツ(小川隆夫執筆)から菊地の初期キャリアを引用したい。
1940年3月23日に東京で生まれている。東京芸大付属高校を卒業した1958年にプロ入りして、エディ岩田とポーク・チャップス、大矢隆敏とハイウェイ・サンズ、沢田駿吾カルテットなどで演奏。1960年代初頭には高柳昌行、金井秀人、富樫雅彦らとジャズ・アカデミーを結成し、これが発展して後に「新世紀音楽研究所」となる。(略)1965年に参加したシャープス&フラッツを経て、翌年には富樫と共に渡辺貞夫カルテットに参加。(略)1968年には来日したソニー・ロリンズのグループにピアニストとして加わる一方、日野皓正と双頭クインテットを結成して大きな話題を呼ぶ。しかし同年秋バークリー音楽院に留学したため、クインテットは惜しまれつつ解散してしまう。翌年の帰国後はダブル・ベース、ダブル・ドラムスからなるセクステットを結成し、それまで以上に創造的なジャズを目指すようになった。そんなときに出会ったのが、ピーコックである。
ピーコックは60年代末の来日(70年というのは間違い)から二年以上にも渡って滞在した。と言っても「彼はミュージシャンとして来日したのではなく、東洋思想に興味を抱き、精神面をいまいちど見つめ直そうと考えてこの国にやってきたのである」と小川は記している。また「最初の一年は京都、その後は居を東京に移し」、とも。音楽活動は限定的にしか行わなかった。どうやら初めは音楽活動の意志がなかったらしい。だが「このベースの名手にして斬新な音楽性を持った彼の元へ真っ先に馳せ参じたのが菊地雅章だった。(略)二人はたちまち意気投合して、アルバム制作にまで話が発展する。(略)これはピーコックにとって記念すべき初リーダー作に相当する。」ライナーをまとめると以上のようになるが、この総括には間違いもある、というか間違いの方が定説になっていて小川の責任ではない。その点は後述する。
1936年生まれの彼は菊地よりも四歳年長でほぼ同世代。アイダホ出身だが17歳でロスに移り、二年間の兵役中にベースを覚えた。それ以前はピアノ、ドラムス、ヴァイヴラフォンを演奏していたが、彼自身の話によるとベースに触ったとたん弾けてしまい、これが彼の「出会うべき楽器」とその瞬間に悟ったという。59年にバド・シャンクのグループに入り、ベーシストのスコット・ラファロ、サックスのオーネット・コールマン等とこの時期に知りあった。バド・シャンクは典型的な西海岸派のサックス&フルートのプレイヤーだが、ラファロ、コールマンはフリー・ジャズ系のミュージシャンだからピーコックもやがて彼ら同様東海岸に移るのは必然だったと言える。彼の存在を最初に人々に知らしめたのは「スピリチュアル・ユニティ/アルバート・アイラー」“Spiritual Unity”(ESP)での「フリーな」ベースプレイで、これが64年のこと。またビル・エヴァンスの「トリオ‘64」“Trio 64”(VERVE)での演奏も注目された。録音は63年の12月であった。本盤は何と言っても当時の米国テレビアニメの主題歌
「リトル・ルル」“Little Lulu”がキュートで聴きどころ。言うまでもないがこちらはフリー・ジャズではなく「モダン・スタイル」のもの。ドラムスがポール・モチアンだから、最も有名なメンバーを擁した時代のビル・エヴァンス・トリオから「ベースのスコット・ラファロがピーコックに替わった」人選となっている。ただしピーコックのベースがかたやフリー、かたやモダンで、どう違うのか、とか考えなくても良い。聴けば分かるが、違う方法で演奏しているわけではない。一緒。盤の歴史的位置づけからそう区分しているだけだ。
さてそれで、当時からそういった聴かれ方がされていたに決まっているが、確かにラファロっぽく雄弁なピーコックが素晴らしい。このトリオが長続きしなかったのは一説には、ピーコックが気まぐれに「雲隠れ」したからともされており、エヴァンスは彼がいなくなったのをとても残念がった。ピーコックという人にはやっぱり放浪癖があるのかもしれないな。ところで「尺八演奏論」にはこんな一節もある。引用する。
また「銀界」をやるときコンボに加わってもらったのが有名なベース奏者のゲイリー・ピーコックで、菊地雅章さんが彼を呼んでいたのである。ゲイリー・ピーコックは世界一うまいジャズ・ベース・プレイヤーだと思う。そのゲイリー・ピーコックともこの機会に親しくなり、シアトルやパリで再会を果たし、その後も何度か共演する機会に恵まれた。それで、今度は私と一対一でやりたいということで出来たのが「夢幻界・銀界Ⅱ」というレコードであった。
この盤では菊地は参加していないが、「銀界」というネーミング自体にそれなりにセールス的な意味があったのだ。本連載
第67回に記したように邦山が全く別のメンバー(佐藤允彦、富樫雅彦)と作った「無限の譜」(79、ユニヴァーサル)も「銀界Ⅱ」のサブタイトルを持っているのだから。