邦山の出発地点
邦山はどういう経緯で異ジャンル音楽の領域に足を踏み入れることになったのか。彼は言う。「私はもともと、若い時から個人的にジャズが好きで、エリック・ドルフィーやジョン・コルトレーンが気に入っていた。とくにコルトレーンのサックスの曲線的なポルタメントは、尺八に通じるところがあり、大変参考になった。」現代では邦楽の専門的な奏者でも、日常で当然様々な音楽を耳に入れているから、こうした経験は納得できる。邦山の場合、父が初代山本邦山で、生まれた時から邦楽の中に育ったが、それでも洋楽に触れる機会は多く、アマチュア・オーケストラ「地元の大津管弦楽団に加わって約九年間フルートを吹いていた経験もある」とのこと。「尺八を正式に習い始めたのは九歳になってから」、本格的に修業を始めるのは中学一年、「正式に都山流尺八の中西蝶山先生に就いて」からであった。フルートのキャリアと尺八修業とがかぶっているのも面白い。「高校一年のときに都山流の准師範に登第して、一応、人に教えられる資格はできた。それでも尺八で身を立てようとはまったく考えていなかった。」そして「大学卒業の年、都山流の師範試験に登第し『邦山』と号することにした」ものの、尺八演奏家としてやっていく決意はなく、正派生田流家元 中島雅楽之都(うたしと)の下で邦楽全般の勉強をすることになった。従って尺八だけでなく筝についても彼は強い。音楽理論の習得には弦楽器を体で覚えるのが一番だから、この迂回は実のある迂回だっただろう。
彼の演奏家デビューが偶然ながらまことに国際的なものであったのも示唆的だ。1958年のパリ、ユネスコ本部主催の世界民族音楽祭である。邦山は雅楽之都の娘婿、唯是震一(ゆいぜしんいち、1923~、筝)と共にパリに渡る。以下「尺八演奏論」を引用。
実はあとで分かったことだが、尺八は琴古流の納富治彦氏に決まっていて、演奏曲目も出演者名もパリの事務局に連絡が済んでいた。しかし、納富氏がある事情で参加できなくなったため、無名の私が急遽えらばれたのだった。パリでの音楽祭の晴れ舞台のことは、無我夢中であったのであまり覚えていない。《みだれ》を演奏したのだが、プログラムの尺八演奏者名は「ハルヒコ・ノウトミ」になっていた。
邦山が選抜されたのは当然唯是の推薦であろう。唯是は尺八演奏家の父と筝演奏家を母に持つ純邦楽系の家系ながら、早くから西洋音楽にも興味深く、53年から二年間コロンビア大学に留学しヘンリー・カウエルに師事している。55年にはレオポルド・ストコフスキー指揮のニューヨーク・フィルハーモニーとの共演で「春の海」を演奏。国際的に注目を浴び、59年に正式に帰国すると生田流という限られた世界での演奏や指導に留まらない積極的な活動を日本で開始する。邦山が唯是と出会ったのはこうした環境下でのことだったのだ。引き続き唯是と二人で英国とイスラエルを巡回し、計14回のコンサートを持った邦山はここでみっちりしごかれ、「二十曲近いレパートリー全部を完全に暗譜することが」できるようになっていた。唯是はまた現代音楽の音楽理論にも通じており、いわば邦山の尺八とのコラボレーションによって自身の音楽世界の幅を広げようとしていたと思われる。当時、特にフルートの曲「組曲第2番」には苦労したという。改題され「無伴奏尺八組曲第2番」となったこの曲は西洋音楽の方法で書かれており、もともと五孔しかない尺八では演奏不可能なのである。
ごくごく基礎的なことを確認しておく。尺八には西洋音階に順応するよう孔の数を増やしたタイプのものもあるが、本来は前面に四つ、背面に一つ、計五つしか音階孔は開いていない。邦山が吹くのはこれである。さらっと書いてしまったが、これではドレミは吹けない道理だと納得されたであろうか。じゃ、どうやって吹くかというと孔の開け部分を指で調整したり、息の吹き方の強弱、当てる角度の調節でどんな音階の音にも対応することになっている。だからドレミでも吹ける。そういう理屈。理屈は理屈でも理屈に過ぎず、そう思って
「テイク・ファイヴ」を聴くと感動もひとしお。西洋人が一番驚くのもやっぱり尺八だそうだ。どう見ても単なる竹。上下が開いていて、ぱっと見、四つしか孔がなく、後ろをよく見たらもう一つ。これだけ。東洋の神秘とはまさにこれ、という感覚を彼らが覚えたのも当然だろう。世界各地の民族音楽にバンブー・フルートと総称される楽器は普通にあり、それぞれに特色は「ある」ものの逆に尺八くらい「何にもない」のは珍しい。昔は上下で分割されるようにもなっていなかった(今はジョイント・システムが普通)というから、この何もなさはほとんど確信犯であろう。
海外演奏旅行から帰った翌1959年、邦山は第1回リサイタルを開き、これが彼の国内デビューとなった。この会では唯是が新作「尺八と筝の独奏とオーケストラのための協奏曲第三番」を邦山のために贈ってくれた。とはいえ「ジャズへの道」はまだまだ遠い。
邦山の国内デビュー前後から邦楽界の動きも急速化している。純然たる趣味、あるいは習得さるべき作法の一つ(茶道や華道をイメージしてもらえば分かりやすいだろう)としてしか捉えられていなかった邦楽修養(とりわけ「娘さん」にとっての琴がそうだが、尺八も「お父さん」の趣味として定着していた)が、いわばそのカラを破られる。プロの演奏家が積極的に演奏の場所を広く求めるようになったのだ。
これは閉鎖的な会派ごとの「発表会」的なまとまりから超会派的な「演奏会」活動への転換という流れに掉さすもので、邦山に関して見れば「民族音楽の会」が相当する。「尺八では青木鈴慕氏と私(邦山)、筝では生田流の沢井忠夫氏、山田流の伊藤松超氏と高野和之氏、それに長唄三味線の杵屋栄三郎氏の六人が」集まった。「この六人のメンバーなら、三曲ものもできるし現代曲もできる。三人三人でもできるし、四重奏もできるし、尺八二重奏もできる。さまざまなプログラムが組める。」このグループからインスパイアされ、邦山は青木と共に尺八三本での曲を演奏するためにもう一人横山勝也を誘い「尺八三本会」を結成。ここから現代音楽作曲家 広瀬量平に委嘱した「三つの尺八のための『ハレ』」が生まれ、これを含む彼の作品五曲を集めてこのメンバーで収録したアルバム「尺八1969」(日本クラウン)が芸術祭優秀賞を受賞する。もっとも、この動きは邦山がジャズマンとセッションを持つようになるのと並行するものだ。
ここで少しだけ時間を戻して邦山とジャズマンとの出会いを記すことにしたい。