映画の中のジャズ、ジャズの中の映画 Text by 上島春彦
第63回 人間国宝ジャズ 山本邦山追悼
ジャズと尺八の共通性
尺八演奏家 山本邦山(やまもとほうざん)氏が2014年2月10日に亡くなった。生年1937年10月6日。享年76。人間国宝です。さて、では人間国宝とは何ぞや、ということをまず記さねばなるまい。日本において同国の文化財保護法に基づいて、同国の文部科学大臣によって指定された、無形文化財、と定義はちゃんとしている。「重要無形文化財」ともいう。とはいえ、きちんと定義されるとかえってややこしくなる。要するに「伝統芸能」を後世に継承するために、その「技能を持った人材」を「国宝」と指定する、という意味だ。この場合、山本邦山は都山流尺八の奏者として2002年に指定されている。都山流が国宝指定されたわけではなくて、尺八という大きなくくりでのことだろう。何故このコラムに人間国宝が登場したかと言うと答えは簡単。この方は尺八でジャズをやったパイオニアなのである。ナベサダもヒノテルもそりゃ偉いが、人間国宝でジャズってさすがに邦山先生おひとりであろう。もっともジャズは日本の芸能音楽と認められることは本来ないとは思うが。
こんな言葉が残されている。1970年の発言で著書「尺八演奏論」(出版芸術社刊)より。

ぼくがジャズをやったというのも、結局、創造力というものと、演奏力ですね。それからやっぱり構成力。たとえばコンボの場合でも二、三人でやる。その二、三人が一つの心になると、演奏しながらその心を感じとって、その場でスリルに満ちた、アドリブをやっていく。こういう生きた音楽というのは、ジャズが、最後の音楽だと思いますね。(略)ほんとうの日本のジャズ、ニュージャズをつくり上げるなら、そのほんとの大事なものを忘れてはいけないと思う。(略)私のある考えでは、やれジャズとか、クラシックだとか、シャンソンとか、邦楽とか、いろんな種類がありますね。ですけれどもしょせん音楽は一つであると。ぼくはジャンルがないと思うんです。

というわけで、もう結論が出た感じもあるが、それで万事OKというものでもない。ジャズにも色々あるし邦楽にも色々ある。同じ伝統芸能でもアメリカの20世紀初頭の原初的形態を残したニューオリンズ・ジャズと尺八が同じ舞台で即共演できるかといったらかなり疑問だ。共通のルールなしには異種格闘技戦が成り立たないように(即ちそれが成立している局面では実は格闘技戦は「異種」ではないのだ)、ジャズと邦楽が「ジャンルがない」状態で音楽を演奏するためにはやはりそれなりの取りきめはあり、そしてそれなりの困難を伴うにしても、何はともあれ邦山の尺八とある種のジャズとが創造的にコラボレートできたのも事実。そこではどういう音楽的事態が起きていたのか。山本邦山のジャズを史的に概観することでこの問題を考えてみたい。

同じこの書物の中で邦山は「ジャズと尺八は共通性があると思う。ジャズの特徴は何といっても即興演奏である。その点、尺八は昔から即興演奏をやっていた」と述べながら、一方でこうも語っている。少し長いが引用する。

ただ、ジャズと尺八音楽との違いも小さくない。ジャズはスイングが大切で、「スイング」はジャズの代名詞になっているほどであり、独特のリズムを持っている。一方、尺八の古典本曲は本来、リズムの自由な無拍節的な音楽で、それが持ち味でもある。だから、私のジャズは「スイングしてないからつまらない」という人も少なくない。スイングしようと思えばできないことはない。しかし尺八でスイングしたら終わりである。それでは尺八の持っている叙情性が殺されてしまう。日本の楽器である尺八をジャズにどう生かすかが私の挑戦なのである。だからこうしたアルバムをジャズ・アルバムと呼ばなくていい。インプロヴィゼーション・アルバムと呼んだ方がすっきりする。

この言葉は先の引用と矛盾するようだが実はそうではない。この二つの引用の緊張関係に真実はある。「尺八でスイングしたら終わりである」というフレーズがそれをよく言い表している。つまりジャズっぽくメロディーを担当する尺八、という考え方が否定されている。もちろんそれが全面的に悪いわけではなくて、かくいう邦山氏自身ネットで検索すると「テイク・ファイヴ」“Take Five”を宮間利之とニューハード・オーケストラと共演していたりする。結構ちゃんと楽しそうに「スイングして」おり、分かりやすい名演だ。もっとも「スイングとは何ぞや」という方向に話を持っていくとかえって問題が拡散してしまう。その重大案件に深入りすることなく、しかし場合により言葉と概念だけを通念にのっとり使うことで切り抜けるつもりである。