映画の中のジャズ、ジャズの中の映画 Text by 上島春彦
第62回 非ジャズ時代の三保敬太郎
寺尾聰のソロ・アルバム「二人の風船」と三保の役割
ではあるがやはり三保敬太郎の歌謡曲として近年最もよく知られるのは「風もない午後のサンバ/寺尾聰」ではないだろうか。私がこの歌を初めて聴いたのはコンピレーション・アルバム「東京ボサノヴァ・ラウンジ」(テイチク)だった。タイトルが示すように音楽ジャンルとしてはボサノヴァ。それも60年代から70年代初頭にかけて歌謡曲の分野で作られた新作ボサと、ブラジル製のスタンダード・ボサを日本人が歌ったものをブレンドしたアルバムである。リリースは21世紀になってからのようだから、90年代後半発売の「ソフトロック・ドライヴィン」に触発された企画だったのかもしれない。「シャム猫を抱いて/浅丘ルリ子」や「さよならも云えなくて/江波杏子」といった大女優の隠れた名曲をフィーチャーしているのもお楽しみ。知らないでこれらを聴くとあまりにいいので驚きますよ。三保の楽曲ではないが。
現在この「風もない午後のサンバ」は「寺尾聰アンソロジー1966-1987」、「ザ・サベージ コンプリート・シングルス・アンド・モア」(共にテイチク)でも聴くことが出来る。前者は、記載された二つの年号で予測されるように「サベージ時代のデビュー作『いつまでもいつまでも』から大ヒット曲『ルビーの指輪』(ライブ)まで、寺尾聰のシンガー&ソングライターとしての魅力を探るアンソロジー決定盤!!」だ。またザ・ホワイト・キックスの二曲も後者に収められている。しかし本連載のテーマからこの二枚のアルバムの意義を一言で述べるならば、この中にまるまる収録された寺尾初めてのソロ・アルバム「二人の風船」に尽きる(現在に至るまでこの二枚以外ではアルバムの全体像を知ることは出来ない)。この件は中村俊夫による丁寧なライナーを引用することにしよう。

67年3月、寺尾は父と同じ俳優の道へ進むためにサベージを脱退。(略)だが、完全に音楽から足を洗ったわけではなかった。ジャズ・ギタリストの小西徹に師事し、ジャズを学び始めたことから、ジャズ・ピアニストで作・編曲家としても著名な三保敬太郎(1934-1985)と親交を持ち、寺尾(ベース)と三保(ピアノ)に、サベージ時代の仲間・林廉吉(ギター)、志村康夫(フルート)、河手政次(ドラム)、そして紅一点のヴォーカリスト森野多恵子(のちの大空はるみ、TAN TAN)の6人で『ザ・ホワイト・キックス』(WhiteとKickで白蹴る→シラける、という意味)を結成。68年5月に東芝のエキスプレス・レーベルから「アリゲーター・ブーガルー」でデビューした。GSブームの真っ只中、ジャズ・コンボ・スタイルのホワイト・キックスは異色グループとして注目されるが、シングル1枚のみを残して解散。しかし、寺尾と三保のコラボレーションはその後も続き、69年10月〜70年7月にかけてレコーディングされた寺尾の初ソロ・アルバム『二人の風船/恋人と一緒に聴いて下さい』で結実する。洗練された手法で定評のある三保が、ほぼ全編にわたりアレンジを手がけたこのアルバムは、スタンダード・ジャズ/ボサノヴァ感覚あふれる極上のイージーリスニング作品に仕上がっており、現在でもソフト・ロック/ラウンジ系ファンたちから高い評価を受けている隠れ名盤である。

というわけで歌謡曲時代の三保の最も良質の仕事を一つ挙げるとするならば、やはりこれだろう。先ほど「東京ボサノヴァ・ラウンジ」は「ソフトロック・ドライヴィン」にヒントを得た企画かもしれないと記してある。先行するコンピレーション・アルバム「ドライヴィン」シリーズの意義のひとつが、忘れられていた60年代ボサノヴァ歌謡を発掘することにあったからだ。具体的には、当時既にジャズの分野は言うまでもなく、日本人を代表するポピュラー音楽家へと成長していた渡辺貞夫の歌謡曲フィールドでのかつての仕事(ボサノヴァの日本での普及)に目を向けるのがその実践であり、そうした戦略の一つに三保敬太郎への着目もあった。
既述の楽曲全てがボサ歌謡ではないものの、それでも彼の非ジャズ時代のキーワードがボサノヴァなのは疑いを容れない。以前、本連載第55回で映画『銭のとれる男』(監督:村野鐡太郎、67)の音楽に触れた際、ジャズなのにたいして面白くないと正直な感想を述べてある。時代的な音楽としてはフレンチ・ポップスというのがあり、時折そうした感触の音楽が流れてそちらの方がいいとも記しておいた。三保の歌謡曲での作編曲を聴いていくとその直感が正しいと分かる。もちろんボサノヴァはブラジル起源の「新音楽」だが(「ヌーヴェルヴァーグ」、「ニューウェイヴ」と同じ意味)、フランスっぽいお洒落さを加味したところに当時のボサ歌謡の新しさがあり、とりわけ「風もない午後のサンバ」と小川知子の「女の館」にその感覚があふれている。前者がサンバと言っているのはボサノヴァのこと。

エレキ・ブームの申し子だったザ・サベージとはかなり異なる音楽で、しかもアルバム・ジャケットとかを見ただけでは音楽のスタイルも全く読めない。「アリゲーター・ブーガルー」と「愛の言葉(ことば)」のサイケなR&B路線とも一線を画しており、当時のリスナーはとまどいを覚えた、というよりぴんと来なかったというのが実際であろう。このアルバムのコンセプトは既述のように「スタンダード・ジャズ/ボサノヴァ感覚」にあるが、正確に述べれば、60年代後半にアメリカでブームとなったA&Mレコードのセンスに敏感に反応しているのである。それはクリス・モンテスのヴォーカルで有名な「ザ・モア・アイ・シー・ユー」をセレクトしていることに典型的に示される。
この楽曲が収録されたあちらでのオリジナル・アルバム「モア・アイ・シー・ユー〜コール・ミー/クリス・モンテス」“The More I See You, Call Me”(A&M)のスタッフ・ワークを眺めてみよう。するとハーブ・アルパートとトミー・リピューマがプロデュース、ニック・デカロがアレンジ、と分かる。話を広げすぎると収拾がつかなくなるので前二者の件はいずれということにして、デカロについてだけ記すと、彼のアレンジ・ワークはボサノヴァ・ジャズを下敷きにしたポップスであり、それもフレンチ・ポップスとアメリカン・ポップスの融合でもあって、しかもボサノヴァがブラジル起源なのだから、そうなると「南米&北米&ヨーロッパのポピュラー・フュージョン音楽」をやっているということになる。ええと。とても大ざっぱに話をくくっていますが、つまりこの時代の三保敬太郎の歌謡曲ワークというのは要するにそういう世界最新流行音楽のエッセンスを寺尾聰のアルバムという「場」を用いて発信しているのであり、単純に「真面目な」ジャズの正統派の方々に「見くびられた」、というレベルで語ってはいけないということを言いたかった。

ところで本コラム第50回でニック・デカロのインストゥルメンタル・アルバム「ハッピー・ハート」“Happy Heart”(A&M)にちらっと触れている。映画『ローズマリーの赤ちゃん』のテーマの名アレンジで知られるアルバム。デカロでさらに有名なのは「ジャマイカの月の下で」“Under the Jamaican Moon”を収録した「イタリアン・グラフィティ」“Italian Graffiti”(MCAビクター)であろうが、こうしたAOR(「大人のロック」という意味)の先駆けとしてのシンガー、デカロだけでなく彼の華々しい裏方仕事の幾つかをチェックするつもりなら「ニック・デカロ・ワークス」“Nick Decaro Works”(USMジャパン)というコンピレーション・アルバムもある。