映画の中のジャズ、ジャズの中の映画 Text by 上島春彦
第55回 60年代日本映画からジャズを聴く その13 「ジャズじゃない」時代の八木のジャズ映画音楽
サントラ『非行少女ヨーコ』
サントラ盤『非行少女ヨーコ』を聴く
ここで一枚、八木の傑作アルバムを取り上げよう。リリースは近年で八木の死後のこと。『非行少女ヨーコ』サントラ盤(東映音楽出版、Think!、ディスクユニオン)である。宣伝資料を再録すると「60年代日本のファム・ファタール・緑魔子主演、共演:谷隼人、石橋蓮司、大原麗子、(さらには寺山修司まで)らによる新宿の街を舞台にしたジャズと睡眠薬の青春映画」。封切りは66年、即ち昭和41年、いわゆる「昭和元禄」真っただ中。新宿、ジャズ、睡眠薬、というキーワードが時代を感じさせるが私自身はこの時代の新宿を知らない。睡眠薬は「幻覚剤」がわりに使用するが麻薬と違いお店で買える、というのがミソで、ハイミナールというのが定番商品(もう存在しないが)。睡眠薬を服用してモーローとなり、ろれつが回らなくなるのを「ラリる」と言い、そのおかげで「ラリハイ」という言葉が生まれた。こんな形で名前が残ってもハイミナールは嬉しくないだろう。盤に当時のプレスもついているのでちょっとだけ紹介。

モダン・ジャズの強烈なビートに身を委ね、睡眠薬に酔い痴れる。そして、いきつくところを求めるかのように若い肉体をむさぼりあう。彼らは何を求め、何をしようとしているのだろうか――。この映画は、大人たちには計り知れぬ世界に生きる若い世代にスポットをあてた話題多き一篇、主演・緑魔子が、その魅力を遺憾なく発揮して新境地をきり開く。演出の降旗康男監督は、この作品でデビューする新人。そのみずみずしい感覚が若い世代を抉り出し、妖しいエロティシズムと残酷な青春を謳いあげる。

これだけ読んでも今一つ中身が分からない。ついでに「放送原稿」からも引用する。これは今あまり見られないが、劇場で休憩時間にアナウンスされるのが目的で書かれたもの。「毎度○○東映にご来場頂きましてありがとうございます。(略)物語は、家出娘ヨーコが、若いグループの肉体の触れ合いを通じて自分の生きる道を求め、ヨーロッパへ船出してしまうまでを描いたもので、実際にあった話にもとづいて作られたものです。(略)何卒絶大なるご期待をお寄せ下さいませ。」この際ことのついでに「宣伝文案」も紹介してしまおう。「ヨーコは生まれながらの悪い種子(タネ)/世の中に、男たちに火をつける/危険な少女」、もう一つ「私は札つきの少女!/男の数知れず、/世間に背いてきたけれど…」、他にも色々あるが、これはどれか一つ選んで手描きのたて看板などに書かれるものだ。この時代の緑魔子のキャラクターにぴったりで、どうせなら「非行少女魔子」にした方が効果的だったのではないかと思えるが、「ヨーコ」の名前は実話のままだから変更は出来ない。DVDも出ているので物語はこれ以上語らないでおきたい。それぞれ見てください。
再び盤の宣伝資料に戻る。
「本映画資料には正式な演奏メンバーのクレジットはないが、後年の八木正生の述懐によれば、本人のピアノに加え、渡辺貞夫(as)、日野皓正(tp)、原田政長(b)、富樫雅彦(ds)のメンバーが、さらに数曲で山本邦山が尺八で参加したとある。まさに“非行少女ヨーコ・セッション”と呼びたい名演奏を残すことなく収録した。日本ジャズ史に新たなページを加える画期的なリリースとなろう。」そういう次第で映画の出来はこのサントラ盤の出来にかかっている、といった作品だ。他一部でギターやヴァイヴラフォンの音も聴こえるし、ストリングスもたっぷり。映画ジャズ的に貴重なのは何と言っても冒頭のクレジットにかぶさるテーマ曲で、演奏メンバーのシルエットが(よく見えないが)「見どころ」。助監督だった内藤誠によれば、せっかくの一流ジャズメンなのにシルエットじゃもったいないではないか、と思ったとのこと。まあおっしゃる通りだが今さら言われても。
ところで先日、八木正生の音楽目当てで『空いっぱいの涙』(監督:水川淳三、66)という松竹映画を見たら、タイトル・クレジット画面の主題歌(作曲は八木ではない)がやっぱり歌手グループの演奏のシルエットでびっくり。これは『非行少女ヨーコ』から三ヶ月後の封切りだから、画面処理の類似は偶然ではないだろう。ただし照明の工夫で人影を暗くするのではなく、クロマキー処理により完全にシルエットにしていた。これは映画的には上の部類でなく、とはいえ、主人公が歌手兼ギタリストという設定のため挿入歌(これはクレジットになくそれで逆に作編曲は八木ではないかと推測される)をスパニッシュ・モード的に彩っているのが楽しめる。もっとも、その歌詞は「オレのふるさとは村だった~♪」という中途半端な脱力系メッセージ・ソングで音楽担当者八木としても結構脱力したのではないか。そしてまず記しておくべきは、ここでの音楽が全然ジャズじゃないことだ。つまりもはや時代はジャズではない。

サントラ『黒い太陽/狂熱の季節』
『空いっぱいの涙』を見た同じくラピュタ阿佐ヶ谷で同じ頃、『銭のとれる男』(監督:村野鐡太郎、66)というのも鑑賞。これは音楽が三保敬太郎で、しかも主人公が花形レーシング・ドライバー兼ジャズ奏者というちょっと三保自身を思わせるところもあり、大いに期待したのだが、やっぱり「時代がジャズじゃない」せいか音楽的には全然しまらないのであった。このへんは何とも評価の難しいところで、時代は少しさかのぼるものの、一般的には傑作ということになっている『黒い太陽』(監督:蔵原惟繕、64)は、音楽が何とマックス・ローチのグループを起用したオリジナルという贅沢きわまりないものだが、やっぱり映画としてはしまらない。ただしもう一本のジャズを使った蔵原作品とのカップリングでのサントラ盤『黒い太陽/狂熱の季節』(日活。Think!、ディスクユニオン)というアルバムもリリースされていて音楽的には充実している。
映画ジャズの系譜という側面からはまた別に論を立てなければいけないところだが、ともあれこの時代、映画音楽としてのジャズというのはやはり世間からも業界からも飽きられていたのだろう。だから上手く使われてもぴんとこない(『黒い太陽』の場合ね)、また上手く使われなくても(『銭のとれる男』の場合ね)、当然ぴんとこない、という結果に終わっている。時代はじゃ、何だったかと言うと「イエイエ系」とでもいうか「おしゃれなフレンチ・ポップス」が一世を風靡していたのではないかな。そういう位置取りでちゃんと『空いっぱいの涙』を担当しているのが八木正生だというのが流石としか言いようがない。三保の『銭のとれる男』にしても正統的なジャズ演奏の場面はどうということのない出来だが、ラウンジ・ジャズとかストリングスを使った音源だと冴えてくるのだ。要するに時代はこっちの方に「利あり」という状況だったのである。

というわけで、「時代がジャズじゃなかった」なら『非行少女ヨーコ』はどうなんだ、という話にならざるを得ない。もっとも、既にこのアルバムは傑作だと書いてしまったから、どういう点から見て傑作なのか、を総括することになる。
最も注目すべきなのがタイトル部分の音楽なのは言うまでもない。緑魔子の挑戦的な表情のアップとジャズ演奏とがカットバックする趣向にかぶさるジャズは極上のものだ。ただし時間的には二分弱と意外に短い。そのあたりに気を配りながら聴いていくとコンボによるモダン・ジャズが聴こえてくるのは①「タイトル」、⑨「フロウ・イン・ジャズ」、⑮「あらしの時」の三曲だけだ。後の二曲は四分強である。これにもう一曲⑲「狂気」と題された一分のトラックをつけ加えても良いかもしれないが、この名前から想像されるように富樫雅彦のドラムスと渡辺貞夫のアルト・サックスのデュオがほとんどフリー・ジャズの世界を作っていて、他と趣が違う。とりあえずこのジャズの四トラックを聴き比べるだけで言えるのは八木の「ジャズマンとしての個性よりも音楽監督としての立場を優先した音源作り」である。①ではテーマのメロディは渡辺と日野に演奏させているものの、それは一種の枠を提示させるだけで、短いソロパートの聴かせどころは八木の、まさにモンクそのものといったタッチである。⑨と⑮は、①に比べるとありふれた出来だがホーン奏者にそれぞれちゃんとソロを用意してあって、やっぱり来てもらったからにはそれなりに気持ち良くなってもらわないと、という心配りであろう。
これらの「いかにも」なジャズにぶつけて来るのが四曲程度バリエーションの準備されている「サントロペのテーマ」で完全にイージー・リスニングの世界。ストリングスもかぶさっている。八木はこういうのも大得意なのだ。フランシス・レイの『白い恋人たち』(監督:クロード・ルルーシュ、69)にインスパイアされた『恋にめざめる頃』(監督:浅野正雄、69)という傑作を聴いていただけば一目ならぬ一聴瞭然。そしてそれ以外の楽曲はジャズメンを起用した現代音楽で、武満徹タッチのこれまた絶品。これを聴けば、我々は武満と八木が共作した映画において現代音楽が流れると、反射的に「これは武満作曲」と決めつけてしまうのだが、意外とそうじゃない可能性もあるのではないか、と言うことを考えざるを得ない。現に例えば先日、神保町シアターで共に中村登監督、岩下志麻主演による『古都』(63)と『日も月も』(69)を続けて見ることが出来たのだが、前者は武満徹の音楽で後者は八木正生音楽。その八木の音楽が何とも絶妙に武満タッチなのである。これは多分、中村登が武満を音楽に使えなくなってしまったため、八木が代打として呼ばれ意図的にやっているのだと思う。自身の個性ではなく音楽監督としての音源作りとはまさしくそういうことなのであり、つまり『非行少女ヨーコ』において八木正生は、或る時はセロニアス・モンク、或る時はフランシス・レイ、また或る時は武満徹として映画音楽作りをやっているということになるのだ。
ところで八木自身はインタビューでこの作品についてこう語っている。

これはちょうどヌーヴェルバーグも終りの頃で降旗さんの監督昇進の第一作なんです。それでいろいろ面白いことやったんですけどね。それまでの日本映画の中でのモダンジャズの使われ方はバックグラウンドミュージックか、あるいはファッションとして使われることが多かったんですけど、この映画ではモダンジャズと映像との関わり合いみたいなものが出来たんじゃないかと思います。でも東映の方からはそんなもの独立プロでやってくれ、みたいに言われましたけど。結局東映の小屋(劇場)に来るお客を笑わしたり泣かしたりしてくれればいいんだってことなんですよね…。