アンドレ・プレヴィンとレスター・コーニッグ
去る5月17日(木)、筆者はアテネ・フランセ文化センター主催「アナクロニズムの会」第21回において「レスター・コーニッグと空爆正当化映画の系譜」と題する講演を行った。その報告から入ることにする。今回は隣の
吉田広明のコラムも「アナクロ」がらみ。この会を主宰するのが吉田さん(と関口良一さん)である。吉田さんはジョン・カサヴェテスと伝説のテレビ・ドラマ『ジョニー・スタッカート』“Johnny Staccato”に関する講演を6月に行った、その報告となっている。そこで少しだけ語られている番組音楽については本連載的にも興味深い事例を含んでおり、いずれ何らかの形で述べる日がくるかも知れない。今回のコラムも「イントロダクション」というより、もっと長めのものになりそうな予感がある。「アナクロニズムの会」って何、という方は
アテネ・フランセ文化センターのホームページを訪ねてみて下さい。
コーニッグに関しては本連載でも数回触れている。細々と名前を出したことも数回あったと思うが、主なのは
第29回「ショー・マスト・ゴー・オン」、
第30回「マイ・フェア・レディズ・アンド・ピグマリオン」、
第31回「プレヴィンの“聖”三角形」であろうか。いかなる文脈で取りあげたかというと、現在クラシックの世界で活躍中の指揮者アンドレ・プレヴィンがらみ。天才少年ピアニストだった彼がアート・テイタムのジャズ・ピアノに衝撃を受け、やがて自分からジャズ演奏の世界に飛び込んでいきアメリカ西海岸を代表する白人ピアニストの一人になる、その過程でレコード・プロデューサー、コーニッグが果たした役割に注目した。また、彼がプレヴィンに出会う以前、映画産業における監督ウィリアム・ワイラーとの協働作業(名前を出していないがコーニッグは、その製作中は『ローマの休日』“Roman Holiday”の共同プロデューサーであった)についても述べてある。述べたと言ってもこれらはスケッチ程度で、詳細は拙著「レッドパージ・ハリウッド」(作品社刊)を読んでいただきたい。等と書いてしまってからはたと気づいたが、そちらでもレスター・コーニッグに一章を割いたわけではなかった。脚本家ベン・マドウ(映画『アスファルト・ジャングル』“The Asphalt Jungle”等、また『真昼の決闘』“High Noon”の初稿も担当)や同じく脚本家ドルトン・トランボ(映画『スパルタカス』“Spartacus”等、また『ジョニーは戦場へ行った』“Johnny Got His Gun”の原作・脚本・監督)を語る際に必要に応じて触れているに過ぎない。別に脇役だと思ってそうしたのではなくて、第二次大戦時の戦争映画という、私のもう一つのテーマにおいてきちんと語る計画だったのでそういう扱いになったのだ。いわば「プレ・レッドパージ・ハリウッド」とでも言うか。で、その件に直接に関わるのが今回の「アナクロニズムの会」講演なのである。そういう次第なので本コラムの読者におかれましては、ちらっとだけ、記述した前二回分を読んでいただいてからここに戻って下さい。
今回のアテネ講演は上映映画を権利上スニーク・ビューイング(覆面上映)とさせていただいたために大々的に告知するということはしなかった。にも関わらず講演前から思いの他に広い興味を集めた模様で、とても沢山の方たちが集まって下さった。感謝する次第です。講演の内容は、登場人物も多く時間が短い割に複雑多岐にわたり、ここにもれなく記述するわけにはいかない。ただ要約すれば、第二次世界大戦時代のアメリカにおいて左翼映画人が果たした役割は現在一般に考えられているよりもずっと比重が大きいということ。そこでは映画産業の興行的戦略と軍の情報戦略とが密接に絡み合っていて、その様々な結節点に有能なハリウッド左翼が位置しており、とりわけ対日本戦略に最も上手く機能して戦争を終結に導いた。その上で、戦後起きたアメリカ国内の大々的な赤狩りで狙い撃ちされたのは、実はこれら戦時中に民主主義を守る闘いに馳せ参じ、大いに業界内の評価を高めた左翼脚本家達だったのではないか、と結論づけたのであった。