映画の中のジャズ、ジャズの中の映画 Text by 上島春彦
第37回 アメリカ60年代インディペンデント映画とジャズ    その3 即興演出映画『アメリカの影』の登場
カサヴェテスと即興演出映画のスタイル
カサヴェテスの映画作りの方針が他のインディペンデント系映画作家たち、例えばシャーリー・クラークとどう違うのか、それを一言で述べるならば映画の芯を俳優の演技と捉えていたところだろう。「もしぼくらがハリウッドで『アメリカの影』を作っていたとしたら、誰ひとりとして素晴らしい役者たる自分を表に出せなかっただろうな。(略)ハリウッドには、特に役者たちを駄目にしてしまって、居心地悪くさせるいくつかのルールと規定がある」。
そして「『アメリカの影』が映画ってものに貢献できたとすれば、それは観客が人間を観るために映画に行くようになったことだと思う。観客は人間に感情移入するんであって、技法的な妙技に感情移入するわけじゃない」と断言するのである。そこから最も決定的なカサヴェテス的映画術(そういう言葉が用いられているのではないが)が述べられるのを我々は聴きとることになる。「ぼくが持っているかもしれない唯一の才能は、役者がしたいようなやり方で役者に自分自身を表現させられるってことだ。ぼくがやりたいようなやり方じゃなくてね!」。
とはいえ、この言葉は後にこそ語りえた類の言葉であり、最初の2,000ドルで撮影した素材から作った最初の版は(既述のようにジョナス・メカスが絶賛したのはそちらだが)、技法にはしり「キャメラに、技術に、美しいショットに、実験それ自体に恋していた」。そして気づく。「でも何週間か映画をうっちゃっておいた後で、ともかく消えずに生き続けてぼくに迫ってくる何かがあった。まさに、役者たちがぼくの仕掛けたトリックなんかものともしないで生き残っているところがあったんだ」。
まず58年秋に行われた興行は大失敗に終わったが、59年春に再撮影、再編集、そして秋に現在のヴァージョンが上映されている。新たな場面は一時間分に当たり、最初の版からは25分程度が残されているとのことである。もちろんカサヴェテスはメカスの言葉に納得していない。「二番目のヴァージョンの方がより深みがあるし、一番すごい場面、つまりあの映画の中で最良の場面が入っていると思う」。結局映画完成までには30,000ドルを必要とし、カサヴェテスは当然借金まみれになっていた。借金が返せたのは、その後運よく転がり込んできたテレビ・シリーズ『ジョニー・スタッカート』の主役で得たギャラのおかげだったが、以後、カサヴェテスの映画製作システムはハリウッド映画やテレビに出演して得たギャラを自身の監督するインディペンデント作品につぎ込む、というやり方が一般化してしまった。

日本の映画ファンでATG系での上映時を知らない世代(今ではそちらの方が大多数だが)がリヴァイヴァルの『アメリカの影』を見てから本格的なカサヴェテス受容が始まった(リアルタイムでの散発的な公開作品でファンがじわじわと生まれていたのも確かだが)のは間違いないが、それでもカサヴェテスの企画による全監督作品の中で、この『アメリカの影』だけが孤立した印象なのも確かだ。舞台背景となるアメリカの姿が劇的に変ったからだと思うが、次の『フェイシズ』“Faces”発表が68年で、十年近い年月が流れてしまっている。今回の原稿ではいわばカサヴェテス監督第二期というか、この『フェイシズ』以降については全くふれないことにする。
で、そうなるとつくづく思うのはこの空白期間の重さである。重さというか長さというか、要するにアメリカ映画史にとってあまりに空しい数年間。メジャー・スタジオがあっという間に全面崩壊し、アメリカ映画のあり方がドラスチックに変容を重ねたこの時期にカサヴェテスが監督作品を残せなかったのが虚しい、ということだ。もちろん『トゥー・レイト・ブルース』“Too Late Blues”(61)と『愛の奇跡』(63)という作品はあるし、そこに様々な「カサヴェテスの印」を見つけることは可能だろうが、そのような「残滓としてのカサヴェテス」でなく、ニューヨークのインディペンデント映画作家としての何か作品をこの時期にこそ残しておいて欲しかった。以前、遠山純生さんが企画して私も参加した著作「60年代アメリカ映画」において、この間のインディペンデント映画史を書けなかったわけだが、「当方の力及ばず」で見られなかった映画というのも当然多い、それを認めたそのうえに、このカサヴェテスのように、思うように自身の企画を果たせなかった、要するに作品にならなかった作品というものも同様に多いはずなのだ。果たされなかった映画史、というものの必要性をつくづく感じさせるのがアメリカ映画の60年代なのである。