「正プレヴィン三角形」という構図
1950年代の終り頃にはアンドレ・プレヴィンの評判はジャズ界でも映画界でも上々のものとなっていた。上々のもの、という書き方は何となく微妙だが私個人としては、本当は「特上」と言いたい。ところが一般に世間というのは無責任なもので、異なる領域において共に楽々とトップに立つような人物を「器用貧乏」の一言で軽く見るようなところがある。プレヴィンがまさにそうしたキャラクター。そのせいでどちらの業界にあってもプレヴィンは何となく「ああプレヴィンね、そういう人いましたね」という感じになる。さらに彼の場合クラシック音楽の世界でも今やトップにいるわけで、そうなるとどういう評価になるんだろうと人ごとながら心配になってしまうが、面白いことにジャズ・ミュージシャン、映画音楽家としての業績をあくまで後景にし、指揮者の立場を前面に押し出すようにしたのが功を奏したものか、この二十年くらいで完全にプレヴィンはクラシックの世界の人みたいになってしまった。
クラシック音楽プロパーのファンには多分そうした「クラシック以外の」プレヴィンを知らない者もいるだろうし、また知っていても「修業時代の余技、アルバイト」みたいに感じている者も多いかも知れない。いや当の本人が自身「しろうとのジャズ弾き」と言っているわけだから、そうした視点に間違いは、とりあえずない。ではあるが本連載の視点に拠るならば、こうしたクラシック優先のヒエラルキーにこだわる理由もまた「ない」。というよりむしろ、クラシック音楽の指揮を頂点とするヒエラルキーを「廃することによってこそ見えてくること」が本連載においては重要なのである。要するにジャズ・映画(舞台)音楽・クラシックを三つの頂点にした正三角形としてプレヴィンの世界を構成してみたいのだ。すると、それぞれの頂点において目覚ましい仕事をしている「プレヴィン三角形」の、今度は三つの辺を成す線分にも注目したくなる。ジャズ―(と)映画、映画―(と)クラシック、クラシック―(と)ジャズ、という領域越境的な仕事でプレヴィンはどんな業績を残しているだろうか。とにかくプレヴィンのレコード・リリース(もちろん近年はCD)枚数は膨大で、公式の彼のウェブサイトでも、ほんの申し訳程度しかアルバム紹介をしていない。明らかにお手上げ状態なのだとわかる。
公式サイト(英語)の管理人が最初から諦めていることを私如きがチャレンジするいわれはないので、ほんのスケッチくらいにしかならないが、推薦できるアルバムの紹介にはしたいところである。