ロンドンとリリアン・ギッシュ   第6回 リリアン・ギッシュⅢ2013年10月10日
1917年の3月にグリフィスは『イントレランス』の上映に立ち会うためにイギリスへ渡り、イギリス政府よりアメリカ参戦を促すためのプロパガンダ映画の製作を依頼された。この頃、メアリ・ピックフォードはセシル・B・デミル監督によるプロパガンダ映画『小米国人』に主演し、同年に作られたリバティ・ローンの宣伝映画にも出演している。ワーナ・ブラザーズの『My Four Years in Germany』(ドイツでの4年間 18)は、ドイツ人を徹底した悪者にして大ヒットした。グリフィスは1917年から1919年にかけて4本の戦争映画を監督し、その他に1918年のリバティ債権の宣伝映画を監督した。それにはリリアン・ギッシュも出演している。


ロンドンとリリアン・ギッシュ   第5回 リリアン・ギッシュⅡ2013年9月5日
リリアン・ギッシュにとって1914年は『國民の創生』への出演はあったものの、グリフィスの映画には他に『ホーム・スウィート・ホーム』への出演があった程度で、それ以外は他の監督による映画への出演となった。『国民の創生』のエルシー・ストーンマン役は、リリアンにとってはそれまでにない大きな役であり、リリアンの映画女優としての地位を確実なものにした。しかし、それはリリアンの愛らしい演技はみせたが、より彼女の演技を発揮させるというものではなかったように思う。


ロンドンとリリアン・ギッシュ   第4回 リリアン・ギッシュⅠ2013年8月16日
リリアン・ギッシュはD・W・グリフィスの映画でその名を知られるようになった。グリフィスにとってはなくてはならない女優であり、グリフィスと引き離して考えることが不可能であるほどに、グリフィス映画のリリアン・ギッシュは、映画が何かを語ったり、何かを宣伝したり、また何かを訴えるために存在するのではないという、映画そのものの目に見えない何か、ただ映像が示されるという装置に、時間や空間を越えて、何年の時を経てさえも消えて無くなることのない何かを示し続けた女優であった。


ロンドンとリリアン・ギッシュ   第3回 ロンドンⅢ2013年7月25日
ロンドンに行って、初めてイタリアで毎年10月にやっている無声映画祭のことを知った。ロンドンからイタリアなら飛行機で2時間くらいだったので行くことにした。イタリアに行くのは初めてだった。飛行機でヴェネツィア空港に着いて、列車に揺られて遠い町まで行った。イタリアは乾いたクッキーの匂いがすると思った。一人で少し心細かったが、その分気楽でもあった。安めのホテルをとって、ホテルから会場まで歩いて通った。朝から夜中までずっと無声映画だけを上映している映画祭だった。体力がなくてすぐに疲れてしまう私にはかなりきついスケジュールだった。


ロンドンとリリアン・ギッシュ   第2回 ロンドンⅡ2013年7月12日
フレッドの本屋にはほぼ毎日顔を出していた。紅茶やホットチョコレート、サンドウィッチやクッキーを食べながら、話したり、話さなかったりした。ヴィンセント・ミネリがここへ来たときは、ある本と台本すべてにFor Fredとサインをしてくれたのだそうだ。ミネリはまっ黄色のジャケットを着てやってきたそうで、それでも威厳を失っていなかったとフレッドは嬉しそうに話してくれた。ウェンディ・ヒラーが主演したマイケル・パウエルの『渦巻』(I Know Where I’m Going! 45)の舞台になった島(スコットランドの最北端の一つ)にホテルがあって、シネマ・ブックショップからIKWIGのポスターや写真を買ってホテルに飾ってあるそうだ。


ロンドンとリリアン・ギッシュ   第1回 ロンドンⅠ2013年6月20日
サマセット・モームのコレクションを売ったという知らせがフレッド・ゼントナーさんから届いたのはおととしの初めだった。彼はモームに心酔していて、昔からモームの本や映画のポスターなどを集めていた。送られてきたブルームズベリ・オークションの立派なカタログを見て、こんなにたくさんのコレクションがあったのかと驚かされた。何冊もの初版本、著者のサイン付きのもの、映画のポスター、写真、肖像画にメダリオンまで入っている。モームに疎い私にでさえ、目の前にあるものが信じがたく貴重なものばかりであることがわかる。一体どこでどのようにして手に入れたのだろうと思うのと同時に彼の奥の深さと幅の広さを改めて思い知らされた気がした。