ロンドンとリリアン・ギッシュ Text by 大塚真琴   第1回 ロンドンⅠ
ケヴィン・ブラウンロウに会う
二度目のロンドンは、とりあえず最初のうちは本屋の近くの安めのホテルに泊まって、その後はフレッドの知り合いの知り合いの家の部屋を安く使わせてもらうことができた。ロンドンに到着した翌日にシネマ・ブックショップに行ってフレッドと再会した。フレッドはさっそくロンドンの情報誌であるTime Outを買ってきてくれた。映画館のスケジュールが知りたくて後で買いに行こうと私は思っていたのだ。それからお茶をごちそうしてくれて、ここで好きなだけ本を読んでいいよと言ってくれた。「ほら、エディ・カンタのいい本があるから読んでみなよ」。それから本屋で手伝いをしているDさんを紹介してくれた。Dさんはセルビア人で、それで初めて私は当時ユーゴスラヴィアと呼ばれていた国を意識した。Dさんは前回ロンドンに留学していた時にも本屋にいた人である。ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争の時に生き延びるためにロンドンにやって来た人だった。最初はワゴンを押してサンドウィッチを売る仕事をしていた。その後スタンドで新聞を売る仕事をして、この時にフレッドと知り合って本屋の手伝いをするようになったのである。Dさんは1998年のコソボ紛争の発生でNATO軍がセルビアを攻撃しそうだという噂を聞いて、セルビアにいた母親をロンドンに呼び寄せ、2002年にセルビアに帰って行った。平和な日々しか知らない私は、日常会話に戦争という言葉が普通に出てくることに衝撃を受けた。そうしてユーゴスラヴィアというそれまで全く気にもとめたことのない国のことを急に思うようになった。でも、Dさんは映画のことはあんまり知らなくて、「オードリー・ヘプバーンって誰?」などと平気で聞いていて、それがおかしかった。冗談好きで優しげで温厚そうな風貌は誰からも好かれる魅力にあふれていた。
久し振りに見るフレッドと本屋に胸がいっぱいになっていると、フレッドが地下を見てきていいよと言ってくれた。普通のお客さんは入れないところである。薄暗い狭い階段をゆっくりと下りて行くと、ひんやりとした空気と石の臭いが鼻をついた。石の壁が剥き出しになった地下は小さな電球をつけてもまだ暗かった。その地下の広い空間の中に、大小さまざまな本と古い雑誌が山のように積まれていた。その日はお店のカウンターの奥の部屋で紅茶をご馳走になりながら夕方まで本を読ませてもらった。

ロンドンに着いて翌々日の朝、ホテルの部屋に電話がかかってきて、ハローと答えるとケヴィンだった。私は緊張で頭の中が真っ白になった。一緒にランチはどうかと言われ、もちろん行きますと言った。ケヴィンはホテルにファクスで地図を送ってくれて、私はそれを持ってシネマ・ブックショップに行き、フレッドに見てもらった。地図は細かくて私の目は判読不能になっていた。その日はあいにく電車がストライキで、もともと交通事情に疎く方向音痴でもある私はめちゃくちゃなバスの乗り方をして、まったく関係のない遠くまで行ってしまい、途中の公衆電話からケヴィンに道に迷ったと電話をかけた。泣きそうな私にケヴィンは落ち着いて落ち着いて大丈夫だからと諭すように言ってくれた。その日は天気も悪く風は強いし雨は降るしで、一体どうしてこんな時に限ってストライキと悪天候が重なるのだろうと思ったりした。私は何人もの人に道を尋ねて、ようやくケヴィンのオフィスに辿り着いたのは午後の3時くらいだったろうか。
遅くなってごめんなさいと謝るとケヴィンは仕事しながら待っていたから大丈夫だよと言って、ご飯を食べに行こうねと言ってくれた。ケヴィンとケヴィンの仕事仲間のPさんと3人で近くのお店に食事に行った。

お店はもうお客さんが去った後で静かだった。ラジオからダニ・ウィルスンの“ミルキ・ウェイ”が流れていた。午後の薄暗い店内に3人しかいなかったから、私はやっと少しずつ落ち着きを取り戻した。トマトのペンネとカモミールティーを注文してほっと胸をなでおろすと、ケヴィンはどうして無声映画に興味を持つようになったのか教えてと言った。そこで私は最初に観た映画が『嵐の孤児』であること、リリアン・ギッシュの自伝を読み終わった日に彼女が亡くなったことを話した。それ以来彼女から離れられないんです、わかりますか?と聞くとケヴィンはわかるよと肯いてくれた。ケヴィンが『散り行く花』(19)の上映でリリアン・ギッシュをロンドンに招待して、サヴォイホテルに連れて行った時、リリアンは1917年に『世界の心』の撮影のためにロンドンを訪れた時にもこのホテルにいたのだと感慨深く話していたそうだ。
ケヴィンは11歳の時からフィルムの収集をしていて、ご両親が好奇心の旺盛な息子さんのために映写機を買ってくれたそうだ。当時集めていたフィルムの中にベッシー・ラヴの映画があり、彼女にその映画についての手紙を書いて送ったところ、返事が来て、さらに彼女が映画を観にロンドンまで来たと話してくれた。ケヴィンは無声映画に呼ばれた人なんだなと思った。