コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 Jフィルム・ノワール覚書③『暴力の街』とその周辺   Text by 木全公彦
東宝解雇組のその後
大映系列の映画館で封切られた『暴力の街』の興行は大成功を収め、「大映が日映演から受け取った配分金は、東宝争議の解決金である1500万円を上回る1550万円で、結局50万円の利益となった」(山本薩夫著「私の映画人生」、新日本出版社、1984年)という。そしてこの成功がもとになって独立プロ、新星映画社が設立され、前進座との提携によって『どっこい生きてる』(1951年、今井正監督)が作られることになる。その意味で、『暴力の街』は戦後(左翼)独立プロの礎を築いた作品であるといえる。

だが一方で、『暴力の街』完成直後、東宝争議に続いてレッドパージが映画界を襲い、東宝自主退社組に続いて、組合と東宝との話し合いで再雇用が約束された当初の解雇組もレッドパージで撮影所を追われることになる。新星映画社設立の中心になったのは、東宝退社組であったが、そのほかの解雇組はほかの独立プロで働く道を選んだり、フリーになったりする者もいた。彼らが属した非共産党系の独立プロが金のかからないセミ・ドキュの犯罪映画をどんどん製作するのは、このすぐあとである(そのほとんどは新東宝が配給することになるだろう)。

そして独立プロ淘汰の時代が始まる1950年後半には、その多くの人材は、「うちの会社には赤なんかおらん」とGHQに対して強気の発言をしたマキノ光雄が製作本部長を務める、後発の新興映画会社の東映で活躍することになるだろう。彼らが出演もしくはスタッフとして参加したセミ・ドキュ・スタイルの犯罪捜査映画が東映東京撮影所の社風とあいまって花開くのはもう少しあとのことである。