左翼陣営からの批判
ところで、今日における『野良犬』の評価とは別に、公開当時、とくに左翼陣営から作品について難癖がついたことは、ほとんど忘れられているので、そのことについても書いておきたい。
「たとえば、『野良犬』を批判して、共産主義者は次のようにいっている。あれは虚偽の映画だ。人民の敵である警官をコウテイ的に描くことによってファシズムの温床である警察機構を支持しているのだ、と。私もあの作品が百パーセント真実であるほど立派な作品だとは思っていない。しかし、警官を人民の敵だと一言できめつけずに、一人の人間として描き、警官も人民の一人だと考えて描いたことが何故いけないのだろう・・・もし、彼らがいうように警察機構がファシズムの温床だとするならば、なおのこと、その構成メンバーである警察官の一人一人のヒューマ二ティに何故うったえないのだろう」(「映画新潮」1950年7月、福田正光「黒澤明 芸術を語る」)
その批判でもっとも有名なものは次の一文だろう。
「黒澤明は二人の復員兵(村上刑事と湯佐【原文ママ】強盗犯人を現代の二つの側面、支配階級と被支配階級に属させることによって、いずれの側にもいまなお残っている兵隊の姿をあらゆる方法を用いてあばき立てようとする。私はこの映画をこのようにしか見ることができなかったが、私はこの『野良犬』という題を飼主をうしなった兵隊というふうに考えたわけである。・・・この野良犬の飼主は誰であろうか。もちろんそれは天皇以外にはない。兵隊はまさに犬にように飼われていた。そしてここにはその野良犬にされた兵隊が復員してきて、今度は前の飼主天皇とあまり変りばえのしない依然として封建制を残しておこうとする新しい飼主に哀れにも飼われて行こうとしている現在の日本が物語られる。)(「中央公論」1949年12月号、野間宏「映画野良犬の問題」)
作家として一流でも映画を見る目はないということなのだろうか。
ともあれ、『野良犬』の成功は、GHQの占領下で人気ジャンルであるチャンバラを作ることができなかった日本映画に、刑事映画という新たな鉱脈の発見をもらたすことになったことは確かなことであった。