コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 森田富士郎が語る三隅研次   Text by 木全公彦
勝新太郎の言葉
森田私が勝プロのテレビ『痛快! 河内山宗俊』をやっていたとき、ちょうどお盆休みで撮影が休みになったときがあった。それで撮影が再開したときに三隅さんに「骨休めができましたやろ」と聞いたら、「いや風邪引いてな、全然治らへん。しんどおてな」と、それが亡くなるちょうど1ヶ月前だったと思います。それまで『河内山宗俊』が徹夜続きでね。あれは桃井かおりが何かが気に入らなくていなくなっちゃってね。撮影中止になった。なんでそうなったのかはよく知らんのですが、三隅さんと行き違いがあったんでしょう。それでプロデューサーが中に入ってなだめて再開したのが夜中の3時ぐらいだった。そんなこともよく覚えていますわ。あれは長続きしない番組だったな。

――評判はよかったですけどもね。勝プロのテレビはいつもそうですね。

森田私は東京で『警視—K』というのもかなりやりましたけど、あれも長続きしなかったなあ。勝ちゃんはいつもテレビの限界に挑戦するというか、自分が社長でもあるから予算をかけるのはかまわんのだけど……でもあれ、最近評判いいね。最近見たという若い人がびっくりしたと言っているけど、どうなの?

――いや、びっくりしますよ、あれは。

森田私も楽しんでやったからね。まあ私も勝ちゃんの癖を知ってますからね。勝ちゃんが監督をやった『新座頭市物語 折れた杖』(72)も私がキャメラをやってますけど、勝ちゃんがアップばかり撮るから、メリハリもつけずにそんなにアップばかり撮ってつないでも見ている人に人物の位置関係とか分からないぞと言って、ケンカになったことがあります。もう少しで降りるというところまでいったかな。そんなときに勝ちゃんがポツリと「やっぱり三隅さんはうまい人やなあ」と言ったことがある。

――勝さんだけじゃなく、若山さんも三隅さんを買ってましたね。

森田そうだね。

――最後にもうひとつだけ聞きますが、三隅さんが春画を集めていたことはご存じですか。

森田いや知らない。だけどいつだったかな。雷ちゃんが特別試写会をやろうと言ってフィルムを持ってきたことがあった。いわゆるブルーフィルムですわ。それをどこでやろうかというときに、三隅さんがひょこって顔を出して「わいも仲間に入れてなあ」と言ったことがあった。雷ちゃんは口が悪いから「あんたには見せたらへん」と言ってましたけど(笑)。まあ演出家というのはスケベじゃないとアカンと思いますね。

――どうもありがとうございました。


2006年3月26日 京都太秦にて
取材・構成:木全公彦

*森田富士郎さんのご冥福を謹んでお祈りします。合掌。