コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 木村元保さんのこと   Text by 木全公彦
映画道まっしぐら
木村元保。昭和9年、東京都墨田区生まれ。昭和30年、映画キャメラマンを志し、大映入社。撮影助手を務めるが3年で退社。下町で鉄工所(鉄鋼裁断)を経営するかたわら、8ミリ映画愛好家と墨田ムービーを結成し、“特撮の木村”の異名をとる。ステレオ映画、立体映画なんでもござれで、得意な特撮を生かして戦争映画やSF映画の大作を毎年のように発表し、「小型映画」誌上をにぎわかしていたのだった。

「小型映画」1969年3月号には『2001年宇宙の旅』の向こうをはったような宇宙ステーションの模型を手に得意そうに写真に収まる木村さんの姿が掲載されている。続いて「小型映画」1969年11月号には『嗚呼!戦雲に消ゆ』と題した戦争映画の記事が載っている。8月15日、終戦を聞かされぬまま飛びたっていった特攻隊員の青春を描いた1時間のドラマだという。自身の経営する工場を改造し、防空壕のセットや御前会議の行われる貴賓室のセットまでこさえ、はてはスクリーン・プロセスで実物大のゼロ戦が空を飛ぶ様子を撮影。東宝の8・15シリーズもかくやという大作である。

1972年には国鉄(現在のJR)の協力で、『父ちゃんのポーが聞こえる』真っ青の機関士の父子の半生記『機関士一代記』を16ミリで1時間30分の大作として完成。紀伊國屋ホールや銀座ガスホールで大々的に封切った。

こうした活動をマスコミも取り上げ、当時自主製作映画を熱心に紹介していた「11PM」や「アフタヌーン・ショー」などの情報番組に紹介されたり、顔出しすることもたびたびあり、もはや素人とは呼べない本格的な映画作りが話題になる一方で、小太りで特異な風貌が注目を浴び、テレビ時代劇や刑事ものの端役として起用されるなど、本業そっちのけで映画道をまっしぐらに転落突き進んでいった。

役者としては、東京の浅草・上野界隈を根城にする映画狂のおっさんたちの自主映画製作集団・8ミリドラマクラブが製作した時代劇大作『銭無平次捕物控』に続く、1時間40分の時代劇大作第2弾『次郎長意外伝・三保の豚松』にタイトルロールの豚松役で主演。原作・プロデュ-サーはこれも自主製作グループの名物オヤジだった加次井達男、脚本・撮影は岡村匡雄、監督は高松政雄という布陣で映画化。大々的な宣伝とともににぎにぎしく公開され、評判を呼んだ。

ちなみに加次井達男とは、「“妄執、異形の人々Ⅱ”特集の裏側で」で触れた、都内にある某健康食品の店のオーナー、ぶっちゃけて書くと斯界では有名な浅草にある八ツ目製薬の先代の社長のことである。関東圏の自主製作おじさんたちの中心的人物にして、フィルムコレクターとしても有名で、前回の調査では蒐集したフィルムのリストを記載した大学ノートを残して他界していたことが判明した。したがって今もその先代が集めていたという肝心のフィルムの所在を知る者は遺族のみという、知る人ぞ知るお宝が眠る映画界の地下ピラミッドの主なのだ。監督の高松政男は日本橋のタカマツ・ドラッグストアの薬剤師が本業。撮影の岡村匡雄の本業は観賞用魚用水槽製造業、と多士済々。

手元の自主映画専門新聞「シネタイムズ」1973年6月10日付の記事によれば、クランクインは1972年5月25日で、1973年6月3日クランクアップしたという。公開は6月26日神田一ツ橋共立講堂にて。6月18日にはNETの「アフタヌーン・ショー」でも取り上げられ、大いに宣伝されたという。

ところで、1972年から1973年にかけてといえば、ぴあが主催する現在のPFFの前身ぴあ展の第1回が1977年だから、まだ学生8ミリ映画の時代は到来していない頃のことである。小型映画の製作に熱中する学生はいるにはいたが、機材もフィルム代もまだまだ高価で、アマチュア映画といえば中小企業を経営するような自分の時間とカネが自由になるオジさんたちの贅沢な趣味だったのである。