コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 三國連太郎『台風』顛末記 【その1】   Text by 木全公彦
独立プロ設立
三國連太郎が自ら映画作りをするということをマスコミに発表した最初期の記事は、調べた限り1962年のことである。いうまでもなく、三國は、松竹を振りだしに、東宝、日活、独立プロ、東映と活動の場を移し、五社協定の厳しかった時代に、映画業界やマスコミからのバッシングの集中砲火を浴び、それでも潰されることなく、日本では珍しい肉食動物系の怪優として名声を高めていった。1959年、三國は東映と他社出演を容認する専属契約を結ぶ。『大いなる旅路』(60年、関川秀雄監督)、『七つの弾丸』(60年、村山新治監督)、『宮本武蔵』(61年、内田吐夢監督)、『飼育』(61年、大島渚監督)、『天草四郎時貞』(62年、大島渚監督)、『破戒』(62年、市川崑監督)、『切腹』(62年、小林正樹監督)など、東映の映画に出演しながら、松竹や大映、独立プロの作品にも出演した。

ちょうどその頃、『切腹』に出演中の三國は、近い将来に自ら独立プロを興し、プロデューサーとして「地上」で知られる小説家・島田清次郎の伝記「天才と狂気の間」を映画化すると発表した。監督・主演は未定。まずはその記事から。

〈――プロデューサーをやってみる気になった動機は?
三國 僕ももう年ですからね(笑い)。若いころ俳優としてやりたくてやれなかったものがずいぶんある。その夢というか、願望をいまの若い人たちに託してぜひ実現したい。それに自分でプロデュースするのが一番可能性があると思ったからです。いまの日本映画の企画者や製作者はお年寄りが多い。その人たちは今後監督するだけで、若い人に任せた方がいいのではないか……。このことは、大川(東映社長)さんに了解してもらっています。

――プロデュース第1回作は?
三國 「天才と狂気の間」です。一部の新聞、週刊誌に中村錦之助さんの時代劇を僕のプロデュース作として企画していると報道されてるようですが、これはデマで、いまは「天才と狂気の間」一本だけしか考えていません。早大を出たばかりの新人ライター三人にシナリオを書かせています。

――「天才と狂気の間」の製作態度は?
三國 天才と狂気の壁の中に生きる現代青年を否定しないで、従来のような狭量的な批判でなく、若い人たちの感覚を生かして暗示の形で描いていきたい。僕は企画、製作から宣伝まで一人でやりたいが、監督はやらない。カメラを宮島義勇さんにおねがいしている以外、スタッフ、出演者は未定だが、自分の意図通りの映画を作るためあくまで独立採算でいく。ただし、お金はないからいまから借金のおねがいに歩かねばならない。そして、完成した作品を東映に限らず買ってくれそうな所へ売り込みにいかねばならない。

――製作費の額は?
三國 9月にクランクイン開始の予定だが、脚本が未完成なので、現在のところ具体的なプランはぜんぜんたててない。〉(「日刊スポーツ」1962年5月30日付)

だがこの計画はなかなか実現せず、三國が独立プロ「日本プロ」を設立したというニュースがマスコミを賑わせるのは、それから1年半後の1964年の年初めのことである。豊島区目白台のアパート内に設置された事務所開きが行われたのは1964年1月12日。日本プロの社長は三國と旧知の仲である沢野祐吉が務めることになった。その第1回作品が『台風』だった。

ちなみに三國の俳優としての仕事では、この段階で『越後つついし親不知』(64年、今井正監督)と『飢餓海峡』(65年、内田吐夢監督)への出演が決まっていたが、実際はこのあと『越後つついし親不知』と『飢餓海峡』の間に、『狼と豚と人間』(64年、深作欣二監督)、『怪談』(65年、小林正樹監督)に出演することが決まり、さらに『台風』にゴタゴタした問題があって、この騒動が長引き、『飢餓海峡』に続いて三國が出演した『にっぽん泥棒物語』(65年、山本薩夫監督)のクランクイン直前まで尾をひくことになる。ということは、これらの名作は、三國が自ら興したプロダクションで製作し、結果的には自ら初製作・初監督する作品『台風』との掛け持ちで撮影されたことになるのだから、大いに驚かされる。