コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 1973年の鈴木清順と加藤泰、または個人的な体験   Text by 木全公彦
1973年1月1日未明の加藤泰
続いての個人的な過ぎし日のお話。

小学生の頃、日曜日に家族揃って名古屋の中心繁華街、栄のデパートに買い物に出かけた。今は三越が建っている場所にオリエンタル中村というデパートがあって、三越のライオンがある場所にはカンガルーの像があった。しかし、その日、その辺り一帯は通行止めだった。全共闘による大規模なデモがあったからである。舗道の縁石は全部剥ぎ取られ、私たち一家はしばらく茫然とデモを眺め、やがて回れ右して東新町にあったカニ道楽に行って、カニスキを食べた。

それはいつのことだったのか。記憶はあいまいだが、いずれにせよ、学生運動はその時代の小学生にも大きな関心事であった。嘘でも背伸びでもない。中学生の保坂展人(現在の世田谷区長)が麹町全共闘を組織したことを内申書に書かれて裁判を起こし、16歳の高校生がよど号のハイジャックに加わった時代なのである。私の通っていた小学校の運動会では、棍棒をかかえたジグザグ・デモを取り入れたマスゲームが行われ、子供同士でも「全学連、全学連」とはしゃいでいたことは、現在からすれば信じがたいことなのだろう。名古屋といえば、文化的吝嗇の土地柄であるだけでなく、今は無い民社党のお膝元で、共産党の知事の誕生に沸く東京や京都と違って、やたら保守的な文教圏でもあるのだが、今、思い出してもあの運動会の演出はすごいとしか言いようがない。

だから、小学校をズル休みしてテレビの浅間山荘事件の生放送を一日中見ていたのは、あの日、家族揃って出掛けた繁華街で通行止めに遭い、その向こうで、機動隊とデモ隊がにらみ合う異様な雰囲気を見て、それが子供ながらも妙に興奮したからに違いないと思う。

で、話は加藤泰である。

1970年代の前半、大晦日になると、テレビ愛知だったと思うが、決まって東映の『緋牡丹博徒』シリーズを放映していた。あれは名古屋地区だけ特有の番組編成だったのか。1972年の暮れ、というかすでに年が変わって1973年の元日だったかもしれないが、父親と一緒にテレビで加藤泰の『緋牡丹博徒 お竜参上』を見ていた。今でも名場面として語り継がれる、菅原文太が藤純子にミカンを差し出す場面だった。そこで緊急ニュースを告げる音が鳴った。画面にテロップが出る。それは浅間山荘事件で逮捕された連合赤軍のリーダーであった森恒夫が東京拘置所で首吊り自殺をしたというニュースだった。

1972年の暮れには藤純子はすでに結婚引退し、銀幕を惜しまれながら去っていた。森恒夫の自殺を知らせるテロップ入りの『緋牡丹博徒 お竜参上』を見た衝撃も覚めやらぬ中、三番館の上飯田東映に落ちてきた藤純子引退記念映画『関東緋桜一家』を見に行った。最後のほうで遠藤辰雄が斬られ、天津敏が斬られ、と悪役が斬られていくたびに、タバコの煙が立ち込める薄汚い場内から一斉に歓声と拍手が起きた。もっともこれは加藤泰ではなく、マキノ雅弘の作品であるが、冒頭に書いた「映画も同時代の一期一会の《体験》」とは、つまりはそういうことである。

先日、フランスのシネマテーク・フランセーズで行われた東映のプログラム・ピクチュア回顧上映の初日には、加藤泰の『明治侠客伝 三代目襲名』が上映されたそうだが、やっぱり2011年のパリに住む人々もスクリーンに向かって、拍手や歓声を上げたのだろうか。まあ、オタクばかりがわあわあ騒いでいるのも、この年齢になってみるとうっとおしく感じるだけであるけれども。