菊地雅章
相倉久人
DVD『ヘアピン・サーカス』
DVD『荒野のダッチワイフ』
酒井眞知江著『ニューポート・ジャズ・フェスティバルはこうして始まった』
DVD『真夏の夜のジャズ』
相倉久人追悼
この一カ月ほどで本連載にも関係のあるジャズ関係者が二人亡くなった。
本当は追悼というのはやりたくない。自分にそういう資格があるとも思えない、というのが唯一最大の理由である。しかし中山康樹の場合がそうであるように、そこに言及しないでは話が進まない、ということはままある。面識とかは全くなく単なる一方的な関係だが、自分への影響力がきわめて大きいので語らない方がかえって不自然といったところか。前回原稿を入稿した直後の七月七日、ピアニスト菊地雅章が、その翌日、批評家相倉久人が亡くなった。菊地氏に関しては山本邦山との関係で「銀界」(フィリップス)のピアニストとして限定的に語ったことがある。彼は映画音楽ジャズの分野でも、例えば『ヘアピン・サーカス』(監督西村潔。70)等で目覚ましい仕事を残しているのでいずれきちんと取り上げるつもりだ。
そして相倉氏。平岡正明を日本ジャズの60年代に導いた男であり、山下洋輔の精神的師匠として知られる。彼が『荒野のダッチワイフ』(監督大和屋竺。67)の音楽に山下を起用したおかげで、この時代唯一の山下グループのジャズが図らずも記録されることになった、という話題は第13、14、15回の本コラムでふれている。彼の仕事の総括も近いうちに行いたい。だが今回は久しぶりに読み返した「相倉久人のジャズ史夜話 80の物語と160の逸話」(株式会社アルテスパブリッシング刊)の中からニューポートのマイルス関連の話題をまず取り上げよう(第44夜、第45夜)。彼の記述が、酒井眞知江の「ニューポート・ジャズ・フェスティバルはこうして始まった」(講談社刊)から得た情報に多くを負っていることは彼自身があらかじめ明言している。
第一回フェスティヴァルの前年53年、ニューポート社交界の有志がニューヨーク・フィルハーモニーの野外演奏会を企画して大敗。いっそジャズはどうか、と言いだしたのがタバコ産業で財を為したロリラード(ロリヤール)一族のルイとイレーン夫妻である。イレーンは自身もジャズ・ピアノを弾く人だったのだ。「評論家ジョン・ハモンドの紹介でコンサートのプロデュースを委嘱したジョージ・ウィーン(ウェイン)George Wienn(何とこのヒトの回顧インタビューまでアップされているのだ)も、最初はおよび腰だった」が、ニューポート・カジノの野外テニス・コートを会場に、54年7月17日ついにその日がやってきた。「コンサートはスタン・ケントンによるジャズの歴史にまつわる講釈に始まり、イレーンとは旧い付き合いのエディ・コンドンのトラディショナル・ジャズ(略)とつづき、大盛況のうち真夜中過ぎに終わった。」「当時の雰囲気を伝える音や映像の記録があればおもしろいのに、公式にリリースされているアルバムは第3回(1956年)以降のものしかない。映像では、第5回(1958年)のピックアップ・シーンをフィルムに収めた、名作の誉れ高い『真夏の夜のジャズ』(監督バート・スターン。58)の存在が際立つ程度だ。」
ところが。そう、残っていないと思われていた第2回55年の模様、というかそのクライマックスの演奏が海賊盤「ミセラニアス・デイヴィス」に90年代まず収録され、その後、既述のとおり二枚の公式マイルス関連アルバムにも転用されて、21世紀の今や誰でも聴ける、それがマイルスとモンクのデュオ版「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」なのである。だが、この年のフェスは波乱含み。フェス反対派の横やりで会場確保もままならず、ライヴは「すべて市のフリーボディ・パークで行われた。」そのために「この年は会場の音響設定があまりうまくいっていなかった。その中で、ひとり聴衆の注目を集めたのが、最終日の夜のステージに急遽飛び入り参加したマイルス・デイヴィスのトランペットだった。(略)ミュートをつけたトランペットのベル(朝顔のように開いた部分)を、ほとんどマイクに触れる寸前まで近づけて、音色の美しさを際立たせたマイルス独特のメロディアスな演奏に圧倒されたのだ。」
さて、相倉の面目躍如たるところは、こうした表だった動きと同じ比重で、このフェスの裏側で同時代アメリカにおいて起きていた事態にも筆を割いている点にある。牧歌的とも見えるニューポートの55年夏から五年が経った。それが「第52夜:ニューポートの反逆者たち」である。ここでは50年代の終わりから60年代初頭にかけてアメリカ社会に巻き起った黒人たちの公民権獲得闘争の一環としてジャズ・フェス、正確に言えば「アンチ・ジャズ・フェス」運動が捉えられている。変換の時代を鳥瞰する相倉の筆が冴え渡り、そこでもマイルスが一方の主役である。と言ってもマイルスという人は声高に権利を主張して闘争に参加するタイプではない。ここではむしろ被害者の側面を露わにする。だから「主役」というよりは「撃たれた尖兵」というか「露払い」だろうか。59年8月、ニューヨークのクラブ、バードランドに出演中だったマイルスが休憩時間、路上にいたところを白人警官に警棒で殴られ留置されたという事件から相倉は語り始める。「この小さな出来事は、ジャズにとってまさに、次に訪れる波乱の1960年代へのイントロダクションだった。」
年が明け、60年初頭、ノースカロライナ州グリーンズボロの白人専用ランチ・カウンターから始まった「座り込み運動(シット・イン・デモンストレーション」がやがて流血を見、これに抗議してジャズ・ドラマー、マックス・ローチは運動に深く加担するようになった。ローチは既に58年、人種差別に反対する姿勢を鮮明にしたアルバム
「ウィ・インシスト/フリーダム・ナウ組曲」“We Insist! Max Roach’s Freedom Now Suite”(原盤CANDID)を発表している。そして流血事件から半年後のニューポート、1960年6月30日、この地で「同時に二つのコンサートが開かれた。拡大の一途をたどるフェスティヴァルの“売れ線狙い”に愛想をつかしたチャールズ・ミンガスとマックス・ローチが、目と鼻の先で別のコンサートを始めたのである。」この、いわば「アンチ・ニューポート・フェス」の白人側からの扇動者が何と本家ニューポート・フェスの発案者イレーン・ロリラードだった、というから可笑しい。夫ロイとの間に亀裂が生じ、イレーンは58年末の役員会で理事の座をおわれてしまっていたのだ。フリーボディから数ブロック離れたクリフ・ウォーク・マナーに会場が設営されることになり、その交渉に直に当たったのがイレーンさん本人であったという。そして。
コンサートがスタートした時点では客は五〇人前後しかいなかったが、ステージが進行するにつれてしだいに増え、楽しい雰囲気につつまれて大いに盛り上がった。プロモーターが介在しない、すべてミュージシャンだけの自主企画だった関係で、録音機材にまでは頭が回らず、残念ながら録音は残っていない。それを惜しんだ評論家ナット・ヘントフの監修で、主要メンバーをスタジオに再結集したアルバム『ニューポートの反逆者たち』が録音されたのは、半年後の1960年11月のことだった。
アルバム『ニューポート・レベルズ/ジャズ・アーティスト・ギルド』
アルバム『ザ・ジャズ・ライフ』
現在このアルバムはCD「ニューポート・レベルズ/ジャズ・アーティスト・ギルド」“Newport Rebels/Jazz Artist Guild”(原盤CANDID。キング・レコード)として入手出来る。ヘントフによるライナーの冒頭だけちらっと読んでみる。「大きな成果といえば(略)ニューポートに反抗するミュージシャンたちによる、もうひとつのフェスティバルの誕生である。(略)。この(略)反抗活動は(略)ベン・ハー・ウィズ・ア・ホーン・プロダクションの儲け主義的なやり方に抗議する形で行われた。自分たちの音楽人生でたった一度だけ、契約事務所を通さず興行主やその他の仲介役も立てずに、自ら企画し演奏を実現させた事は、参加したミュージシャンたちにとって大きな刺激となった。」また、このアルバムの姉妹編として「ザ・ジャズ・ライフ」“The Jazz Life!”(CANDID)もある。名義は同じくジャズ・アーティスト・ギルド。
一方、本家本元のニューポート・ジャズ・フェスはとんでもないことになっていた。街は酔っぱらった若者と車であふれ、あげく、会場に入れなかった者たちが乱入。それを阻止しようとした警官隊ともみ合いとなり混乱は加速。「結局この年を最後に、地元ニューポートでのフェスティヴァルは終焉をむかえる羽目になった。」(続く)