空間音楽の系譜
一方、「五線譜に書き表わすのは少し難しい」と邦山が言う「空間音楽」の系譜。山本邦山とジャズの関わりを見ていく時、こちらの系譜を忘れるわけにはいかない。著書を読むと松村禎三、広瀬量平、この現代音楽作曲家二人との仕事にも触れるべきと分かるのだが、とりあえずジャズとの関連は薄い。
邦山とジャズの関わりを捉える時、村岡のアプローチと質的に異なるのがこの「空間音楽」の概念である。ここまで紹介してきたアルバムは全て邦山自身の(また村山自身の)即興(インプロヴィゼーション)パートは皆無に等しく、ジャズ的アレンジの部分は前田憲男や山屋清のペンで既に記譜されていた。しかし邦山には少なからぬ数の、彼自身による即興演奏とジャズの融合セッションがレコーディングされている。今回はまとめてそれらを取り上げたい。まず引用から。
ジャズは即興演奏が命だといわれる。その通りである。ただ、それですべてを言いつくしているわけではないように思う。むしろ私は、ジャズはカンバセーション、つまり対話ではないかと感じている。(略)かつて、佐藤允彦さんのピアノ、富樫雅彦さんのパーカッション(打楽器)、そして私の尺八で「無限の譜」というレコードを出した。これは大まかな打ち合わせだけで楽譜はない、文字通りの即興演奏であったのだが、とてもうまくいった。(略)私がジャズをやったというのは、結局ジャズは、何度も言うようだが、時間と空間の世界で創造力と演奏力を発揮する音楽であるということ、演奏で対話するということに惹かれたからだった。(略)こんな人間的で、かつ血の通った音楽がほかにあるだろうか。こういう生きた音楽というのは、ジャズが最後のものかも知れない。
第63回で記したとおり、邦山とジャズの出会いは「禅の音楽」“Music for Zen Meditation”(VERVE)のためのセッションである。この時リーダーのトニー・スコットは邦山に「日本の伝統的な陰旋法(都節音階)から離れず、尺八のいろいろな技法を使って存在感を出すように」と注文を出したという。この指示は極めて示唆的と言える。スコットは自身のクラリネットを邦楽器に合わせるにあたり、いわゆるジャズではなく即興による東洋音楽の方向を目指していることになるからだ。そして後年の邦山の言う「空間音楽」もまたその方向にある。
アルバム「無限の譜」(79、ユニバーサル)のサブタイトルは「銀界Ⅱ」で、言うまでもなく「銀界」(70、フィリップス)というアルバムが先にあり、その続編的な意味合い。邦山はこのアルバム「銀界」に関して以下のようなことを述べている。「シャープス・アンド・フラッツ」との帰国後の連続公演を経てアドリブの妙味も分かってきた邦山であったが、このアドリブは前田憲男の記譜したもので、そんな時「ビッグ・バンドとやるのも良いが、たまにコンボ(小編成)をやってみないか」と声をかけてきたのが佐藤允彦であったこと。だから本当の即興演奏は佐藤とが初めてだったこと。「コンボだと、ビッグ・バンドの場合と異なって、フリーなアドリブができる。アドリブの受け渡しの呼吸などもこのコンボで身につけていった。」そして。
佐藤さんとのフリージャズを聴いていたのがピアノの菊池雅章(まさぶみ)さんで、「今日のは良かったけど、君のサウンドを聴いて、俺は俺流にやれると思うから、一度一緒にやってみないか」と誘われた。その時も「(略)尺八が古典本曲風にやって、バックを我々がジャズ的にやる」ということになった。(略)それが一九七〇年に出したLP「銀界」で、(略)爆発的に売れた。(略)また、「銀界」をやる時コンボに加わってもらったのが有名なベース奏者のゲーリー・ピーコックで、菊池雅章さんが彼を呼んでいたのである。
ピーコックと親交を深めた邦山はその後、アルバム「銀界Ⅱ 夢幻界」(96)を共に作る。だから「銀界Ⅱ」には「無限の譜」と「夢幻界」という全く異なる二枚のアルバムが存在することになる。また同じくアメリカのベース奏者、デヴィッド・フリーゼンと佐藤との間で持たれたセッションからは「邦山、フリーゼン+1」(80、フィリップス)も生まれた。同80年、邦山は佐藤、富樫と共に旧西ドイツ、ドナウェッシンゲン音楽祭に参加、このセッションもドイツで「ジャズ・オブ・ジャパンVOL.1 ドナウェッシンゲン音楽祭1980/富樫雅彦」としてアルバム化されているが日本盤のリリースはなかった模様。
最初の佐藤允彦とのセッションがどうやら音源として発表されていないようなので分かりにくいのだが、結局この1970年代の十年間は邦山にとっては、佐藤によって導かれ、富樫、菊池という新しい世代のジャズ奏者との出会いによって実を結んだ独自のインプロヴィゼーション・ミュージック時代だったのだ。邦山の著書には音楽祭セッションに際してのドイツ側からの反応(ジャズ評論家クラウス・バッハマンによる評)が引かれている。「ヨーロッパ人の耳にとって『典型的に日本的』だったのは(富樫、山本、佐藤の)音楽であった。このトリオの演奏には確かに本来の日本音楽に起源をもつ響きと構造とがあった。日本の音楽の伝統とジャズのイディオムとが、見事なまでに融合し合っていた。(略)山本邦山はその演奏のなかで『像』を創りあげず、精神集中と思考を放射する。」
バッハマンの評も改めて引用する価値がある。「邦山の尺八演奏の持つ雰囲気、意図及び機能といったものは、やはり西洋の印象主義とは同じものではない…印象主義とは多くの場合何かを表現しようとするものである。」この言葉に続けて、彼の音楽は「像」を創らない、という決定的な一語が発されるのだ。ならば「創る」のは何かと言えばもちろん「空間」、つまり「音」の「場」なのだ。これは多分アメリカ本場のジャズ批評家からは表れない種類の感想であり、ジャズを即興演奏の一形態として客観視できるスタンスにあるヨーロッパの批評ならでは。そして日本のこの時代のフリージャズの一傾向を見事に言い表している。
邦山はこの後、やはりドイツの音楽祭でカール・ベルガー(ピアノ。ヴァイヴ)と出会い、彼との交流はレコード「アゲイン・アンド・アゲイン」(ビクター)に結実する。彼に佐藤允彦も加わり、87年コンサート「シルキー・アドヴェンチャー’87」も開催されている。面白いのは佐藤とは「アフィニティ/ヘレン・メリル」“Affinity”(ベイブリッジ)といった、「空間音楽」でない方のジャズにも共演していること。どうやら佐藤允彦は邦山の考えるジャズ二分法のその両方に臨機応変に対処できる人材であり、彼のような演奏家がいたからこそ「場」を創るジャズへと邦山は移行できたわけだ。メリル、佐藤とは邦山の亡くなる前年にも舞台で共演し、「ヘレン・メリル・ウィズ・フレンズ・イン・八千代座」(スタジオソングス)のタイトルでアルバム化されていることも言い添えておこう。