民謡ジャズとジャポニスム
改めて和ジャズを(大ざっぱにではあるが)定義することから始めたのは、言うまでもなく山本邦山が参加したジャズ・アルバムがこのカテゴリーに属すると考えられるからだ。だからといって、そこから「尺八の和ジャズ性」とか「和ジャズにおける邦山の位置」という風に彼の音楽を限定的に規定する方向に話題を振るつもりは全くない。和ジャズ定義には、厳密な音楽的内容の確定化、中心化は既述のように不要であり、この場合、録音された時期が当てはまることにだけ注意しておけば十分だろう。
もちろん邦山自身、
前回既述したように「日本のニュー・ジャズ」“New Jazz in Japan”(日本コロムビア)というアルバムはリリースしているし、そこで提起された「日本における新しいジャズ」という概念がそっくりそのまま「和ジャズ」というブランドのありうべき姿の一つを形成しているのは明らかである。ただ、和ジャズという標語はずっと後年になって現れたもので、いわばそれが「現在のジャズではない」というところにこそ、ところにのみ、価値が認められる倒錯的な概念だ。「昔の」日本人による「進取の気性」に富んだ「かつての」ジャズが和ジャズなのであって、だから、演奏する(アルバムで演奏していた)ミュージシャン本人にとっては「和ジャズというものはない」ことになる。この齟齬というかぎくしゃくした感じは結局のところ、和ジャズ批評の可能性のなさに収斂していくしかないのか。「いや、面白いアルバムさえあれば批評などなくても良いのだ」という意見も当然あろうが、私が言いたいのはそういう個別のことではなくて、例えば一枚のアルバムがあったとして、それを「面白いものにさせるジャズ的な視点」を厳密に批評言語で明らかにして欲しいという意味だ。ジャズ批評誌の立派な特集も残念ながらそうした求めに応えるものではなかった。
そんなジャーナリズムの環境の中でリリースされたコンピレーション「和ジャズPLAYS」シリーズは、特に批評的言説が充実しているわけではないにせよ、蒐集された音源の豊富さのおかげで聴きどころが満載だ。ビートルズの楽曲やソウル、ポップス、ロックなど集め方は色々だが本コラム的に取り上げるに足るのは「ジャポニスム」と「民謡」の二枚に尽きる。最初の引用から既に一度「音楽的内容は問わない」のが和ジャズだと述べてしまったが、ここで改めてこの二枚に代表される「日本情緒」のジャズ化を特化して、その中での和楽器奏者(山本邦山、他)という風に話題を展開しようと思う。つまり和ジャズの代表的演奏家として邦山を特筆するという方向ではなく、むしろある時代のジャズの環境の中にある一群の人々を散在的に位置づけておきたい。あくまでもその中の一人として山本邦山を見たいのだ。ジャポニスムや民謡ジャズこそが和ジャズの真髄、ということではなく、あくまでそれに注意することで見えてくることを語ろうと思う。
今度は「和ジャズPLAYS 民謡」のライナーを少しだけ読んでみる。同じく尾川雄介による。
ジャズにはそもそも他ジャンルと結び付き易い性質があり、これまでもさまざまな音楽を吸収して発展/変化してきた。南米、アフリカ、中近東などといった地域性の音楽から、ソウル、ファンク、ロック、ポップスといった時代性の音楽までその対象範囲は広い。同様に、ジャズはその国や地域の伝統音楽とも密接に関わっており、この“地域密着型ジャズ”も仔細に見てゆくと非常に興味深い。(略)そもそもジャズと日本の伝統音楽は親和性が高かったようで、民謡や古謡は古くからレパートリーになってきた。
「古谷充とザ・フレッシュメンのファンキー・ドライブ&民謡集」
古くから、という言葉に含蓄があり、戦前からのこのタイプのジャズについては(次回)後述する。ライナーにおいて特筆されるのは60年代以降のアルバム限定。その最右翼が言うまでもなく邦山をソロイストにした「ニューポートのシャープス&フラッツ」(日本コロムビア)であり、尾川は「日本のジャズを海外でアピールする」ための「武器」として「民謡、古謡」を位置づける。ちなみに「ソーラン節」が代表ナンバーとして本コンピ盤で聴けるもののここには邦山はフィーチャーされていない。この67年のアルバムは、私も概ねそうした意味合いによって本コラム
前回、
前々回で語ってある。この他に同じく67年リリース「古谷充とザ・フレッシュメンの民謡集」(テイチク)を始め、
「木更津甚句」収録の61年
「黄色い長い道/秋吉(現・穐吉)敏子」(朝日ソノラマ)、本コンピに「おこさ節」と「八木節」を収録する61年「中村八大“日本の旅”」のタイトルも先駆的な作品として上がっている。
ライナーでの紹介アルバムにもう少しこだわっておこう。「1970年代に入るとジャズと日本の伝統音楽の融和に加え、ロックやイージーリスニングとのクロスオーヴァーも進み、より独創的な作品が生まれる」とした上で70年「ロック・コミュニケーション 八木節/前田憲男」(テイチク)、71年「ビューティフル・バンブー・フルート/山本邦山+シャープス&フラッツ」(フィリップス/フォノグラム)、72年「オン・ステージ〜日本の古典芸術/見砂直照と東京キューバン・ボーイズ」(日本コロムビア)、75年「ナウ・サウンド’75〜脱・日本民謡/市原宏祐とラヴ・リヴ・ライフ」(ビクター)に注目している。ここに、
前回も取り上げた63年「弘田三枝子 日本民謡を唄う」(東芝)、65年「さくらさくら/白木秀雄クインテット&スリー琴ガールズ」(SABA)を改めて加えておこう。
本コンピは本当に宝の山で、一曲一曲解説をしていってもいいくらいだがそれだと文字数がいくらあっても足りないのでポイントだけ押さえるに留める。結論。つまり、民謡ジャズの要はプレイヤーではなく実はアレンジャーである。上記においては自身のリーダーアルバム「ロック・コミュニケーション 八木節」にしか名前が出てこないが前田憲男が圧倒的な存在と分かる。「日本のニュー・ジャズ」、「ニューポートのシャープス&フラッツ」、「ビューティフル・バンブー・フルート」、「日本の古典芸術」、「弘田三枝子 日本民謡を唄う」、そして本コンピに「花笠踊り」が収録された70年のアルバム「日本のうた/東京キューバン・ボーイズ」と実に計六枚までが前田のアレンジによる。
そしてもう一人の注目アレンジャーが山屋清である。本盤に沿って見ていくと「金比羅船々」を聴ける76年「筝クロスオーバーの世界 海を詩う/米川敏子、山屋清」、「ホーハイ節」が聴ける76年「尺八 山の詩/三橋貴風、山屋清」、「安里屋(あさどや)ユンタ」が聴ける76年「尺八 里の詩/三橋貴風、山屋清」を挙げられる。三橋貴風も邦山同様尺八奏者。山屋については盤をまたいで「和ジャズPLAYS ジャポニスム」も一緒に見ておくと「鈴慕」を収録した77年「虚無僧の世界/三橋貴風、山屋清」、「じょんがらの里」収録の76年「津軽・恐山」が紹介されている。「民謡的旋律に顕著な“和の要素”を強調したオリジナル楽曲」というのがここで「ジャポニスム」を狭義の「民謡」から分かつ区分となっているものの、この区分自体にそれほど意味はなく便宜的なものに過ぎない。ただし「和ジャズPLAYS ジャポニスム」に採られた楽曲の中には、明らかに「民謡的な和の情緒から切れた」もの(一つだけ挙げれば大野雄二の
「斬鉄剣」とか)も含まれているのでその点には注意が必要だ。ここで再度、本コンピのライナーから引用。そのあたりも含めて語られるからだ。
この民謡や古謡をジャズ・アレンジで演奏するという直接的な手法とは別に、日本的音階を用いたり和楽器を起用したりすることで、響きのなかに日本らしさを演出するという方向性もある。古いものだと白木秀雄の「祭の幻想」(テイチク、1961年)が良い例だろう。さらに、ジャズ自体が多様化してくる1960年代後半以降では、ジャズにおける日本人のアイデンティティの追究として、より先鋭的に日本回帰を試みる作品が登場しているのも興味深い。(略)宮沢昭は1970年頃に「われわれは日本人なんだから、日本人にしか出来ないやつをつくらなきゃならないと思う」と語っている。先にも言ったように、これはジャズにおける大命題のひとつである。
今さらだがこういう感じ方は面白い。民族のるつぼと言われるアメリカ、その「るつぼ」の最たるニューヨークで花開いたモダン・ジャズではあるが、そこではわざわざジャズの民族性が問われるということはなかった。大ざっぱに言えば「黒人、白人という区分すら」なし崩しにする方向でジャズは進んできたわけだから。
ジャズの成立とはアフリカ的な物とカリブ的な物つまり「黒人音楽」と、ヨーロッパ的な物つまり「白人音楽」が北アメリカで物理的に出会うことで起きた事態であり、要するに大陸的な規模での音楽的民族衝突に他ならないが、それが日本にやってくればこうした成立事情はいったん濾過されてしまい、抽象的な「ジャズというジャンルの音楽」になる。だからそれを日本人的な物にする、というある意味「狭い」民族的発想が改めて現れる。ヨーロッパ各国にもそれぞれ優れたジャズ演奏家はいるし、彼らが同国人同士でバンドを組むのもありがちだが、だからといって彼らがわざわざイタリア的なジャズ、ドイツ的なジャズ、フランス的なジャズを追究するというのは基本的にはない。手癖やフレーズの民族音楽的引用ということはあるかもしれないが…。彼らは皆アメリカ的なジャズを追究するわけで、それが当然だ。また日本人にしてもそれは同様、上記の宮沢昭にしたところで立派な「アメリカ的なジャズ」を演奏してきたことに何の変わりもないのである。今回はテーマから逸れるので紹介しないだけで、そういう「アメリカ的な和ジャズ」はいくらでもある。
単純化して述べれば、要は民族音楽的な「和の追究」というのがむしろ「日本における現代音楽」の一大テーマとして元々あり、それがある種の「ジャズにおける大命題」としてある時期集中的に現れたとするべきなのだ。特定の日本人プレイヤーによってのみ民謡ジャズやジャポニスム・ジャズが担われたのではなく、潜在的にはあらゆる日系ジャズ演奏家にそういう契機があって、それが様々な「場」に現れた、と考えればどうだろう。尾川のライナーでは続けて、71年「道祖神〜やぶにらみ民謡考/稲垣次郎とソウル・メディア」(日本コロムビア)、72年「ロック・ジョイント琵琶〜組曲ふることふみ/鈴木宏昌」(RCA/ビクター)、71年「こけざる組曲/三保敬とジャズ・イレブン」(MCA/ビクター)、70年「四つのジャズ・コンポジション/宮間利之とニュー・ハード」(東芝)のタイトルを挙げ、そして「ジャズ的な柔軟さと真摯さで日本人の心象風景を紡いだ作品」として70年「木曽/宮沢昭」(ビクター)、81年「渡良瀬/板橋文夫」(デノン/日本コロムビア)にも言及している。
板橋の「渡良瀬」にまで話を広げると民謡からはテーマが逸れてしまうのでこの件は保留にしておく。また「ロックやイージーリスニングとのクロスオーヴァー」も同じ理由により保留。上記、前田憲男ばかり注目してしまった印象もあるが、彼をアレンジャーに起用した見砂直照(東京キューバン・ボーイズ)の存在を忘れるわけにはいかない。上記盤の他にも66年「祭りの四季〜日本の祭囃子」(日本コロムビア)、71年「組曲“あがらうざ”〜沖縄民俗詩」(同)等が近年CDリリースされ、改めて両者の相性の良さが見直された。全てが前田のアレンジではない(他に福井利雄、内藤法美、松尾健司による)が64年・70年「東洋の幻想〜日本のうた」(同)も二枚のアルバムがカップリングされてCDで聴ける。リリース年を見れば分かるように東京キューバン・ボーイズのアルバム「祭りの四季」は、シャープス&フラッツのニューポート・ジャズフェス出演に先駆けるものであり、このプログラムの基本線は既に同年の東京キューバン・ボーイズ創立16周年記念リサイタルにおいて発表されたものであった。オリジナル・アルバム・ライナー(三隅治雄)によると「従来の軽音楽の演奏会でまったく聞くことのなかった、日本人の生活のリズムが作品にみなぎり、それが広い会場一杯に力強く鳴りひびいたのです。(略)軽音楽界に初めて、日本の新しい民俗音楽が誕生したことを、その時、筆者は感じたのです」とある。「ラテン音楽に確固たる道を開いたキューバンがどうして日本の、しかも現代の青年たちから無視されつつある祭りの音楽に取り組むのか、大方の疑問もその点に尽きようかと思いますが」ともあるように、この企画の実験精神は当時から明らかであった。
とはいえ民謡のラテン音楽バージョンはある意味では戦前ジャズからの流れでもあり、必ずしも「ニューポートのシャープス&フラッツ」のような「見えやすい冒険」とは異なるものであることも指摘しておく。何より、このアルバムが素晴らしいのは「お囃子」という日本のリズムに着目しながらそれが日本精神の発露というありがちな方向に向かわなかったところにこそある。お諏訪太鼓や秋田地方の獅子舞い、江戸の木遣唄がラテン音楽にアレンジされるのではなくほとんどそのまま(街頭録音の挿入さえあるのだ)用いられることでまさに「リズムの饗宴」となっている。この作風は「組曲“あがらうざ”」でさらに発展を見ることになるのである。