映画音楽家として八木は三流か?
ちょうど、このアルバムが録音された78年、サントラ・コンピレーション「八木正生の世界」(東宝ミュージック、ポリスター)のためのインタビューが行われた。『爆発! 750cc(ナナハン)族』についてもこんな言葉が残されている。本コラム
第41回でもちらっと触れたが改めて引用する。
若者の風俗描いた映画で、その意味では前の作品(『青い性』のこと。上島注)とあまり変らないですね。今僕らがグループ組んでやるのもこの種の音楽なんですよね。ジャズっていうのも僕が映画の仕事始めてからでも色々と変って来てるでしょう。その時々にその時のジャズを付けたりしてますよね。それで今やこういうのが今のジャズと言えなくもないですね。
映画音楽家としての八木とジャズマンとしての八木が矛盾なく同居できることが、この発言からうかがえる。しかも「映画」と「ジャズ」、どちらかが余技というのではなく、互いを補い合っている。当時映画音楽にジャズを使うという方法はもはや目新しいものではなくなっており、というより観客はむしろ古めかしさを感じるようになっており、それ故にこの時期の八木は意図的にロック調を取り入れた映画音楽を書く場合が増えていた。彼自身は『青い性』のコメントで「もう一つ新しい世代、つまり石井輝男たちの助監督をしていた世代の人たちが作る様になって来て、これもそうしたニュー・ジェネレイションの旗手が作ったものです。この頃になると音楽の付け方が随分変って来てますよね。つまり『イージーライダー』以後の…」と述べる。
こういう言葉を聞くと映画音楽家としての見識というか八木のカンの良さがうかがえる。映画史的に「『イージーライダー』以後の」とは、音楽で環境や雰囲気を描写するのではなく歌を画面にぶつけるという方法論である。特に顕著なのは既製の楽曲をそのままフィルムに乗せてしまうやり方で、従って、ここでは意図的にコーラスを多用したり、R&Bっぽいエレキベースラインを強調したり、と八木なりにこの感覚を模している。もっともコメントによるとそうした異化効果的な方法を打ち合わせで提案していったんは了承されても、いざ実践となると「でもやっぱりピストルが出た時はジャンといってほしいってことになってベタベタになっちゃうことあるんですよ」とのこと。それはそうだろうと思う。ただ、先に挙げたアルバム「インガ」がやはりアレンジャー的な発想で作られたこととこの映画音楽の構成のなされ方とがパラレルであることに改めて注目しておきたい。
私は八木正生のファンだからあえて批判的な書き方をすると、映画につけるスコアと同時代的なジャズ(ブラック・コンテンポラリー)とが近接状態にあることで、この時代の八木の映画音楽からは武満徹とのコラボレーション時に楽々と達成されていた「画面から生まれる音の生々しさ」は失われてしまった。
ここまで書いてから、話題を呼んでいる相倉久人の「至高の日本ジャズ全史」(集英社新書)をお茶の水ディスクユニオンでぱらっとめくって立ち読みしたところ、彼の八木に対する評価が異常なまでに低いことが判明した。とりわけ映画音楽家としての評価が低く、がっかりしてしまった。これにはとうてい納得できないものの、言っていることは分かる。しまった。買ってないので引用できない。要するに「普通」ということだと思う。時代に遅れることも先駆けることもなく、その時代的な正統に付き過ぎる表現者。「分かる」というのは、端的に言えば「インガ」に表れた音楽がまさにそうだという意味においてだ。相倉は映画の分野では大和屋竺監督『荒野のダッチワイフ』(67)の音楽に山下洋輔カルテットの即興的なジャズを使って最上の効果を上げており、これは八木の方向とは全く違う行き方だった。どちらが正しいという問題ではなく、しかし互いが互いに対して否定的であることは十分あり得るだろう。八木は既に故人であるから、相倉の言葉に対応することは出来ないが、そのかわりに「八木正生の世界」にはこんな言葉が残されていた。
僕の場合、ジャズって立場はあまり意識してなかったんです。ジャズを意識しすぎるとうまくいかないこともあるんですね。日野(皓正)なんかがやったのありますね。あれなんかは全くジャズとして取り扱ってるだけで映画音楽ってことにはひとつ行ってないんじゃないかって気がしますね。ジャズの人が一時はいろんな映画に書いたけれども、まずかったのはやっぱり全体の中での音楽の配分みたいなことを考えなかったんですよね。画面にはひじょうに合った音楽書いてるんだけどもトータルにするとなんだかよく解らないみたいな映画が多かったですね。
これは相倉批判でも『荒野のダッチワイフ』批判でもない。あえて名前を挙げるなら日野皓正のやった映画音楽というのは『白昼の襲撃』(監督:西村潔、70)のことだろう。ではあるが八木と相倉の方法論の相違をここから敷衍することは可能である。『白昼の襲撃』にしても『荒野のダッチワイフ』にしても大ざっぱに言ってしまえばクレジット・タイトル部分にキャッチーなテーマ音楽がかかればそれで用事は足りるのだ。事実これらの作品は当時から音楽できわめて高い評価を受け、私もまた高く評価しているわけだが、映画自体には特に音楽が必要なわけではない。ここは音楽で盛り上げてね、と監督なりプロデューサーが映画音楽家に望みを託したという可能性はあるだろうが、また『荒野のダッチワイフ』にあってはミナという女が口ずさむ音楽もちゃんと準備されていて、そういう次元では音楽が絶対に必要なわけだが、それを除けば、映画音楽は雰囲気を盛り上げるために流れるだけだ。映画音楽とはそういうものだからそれで何の問題もないのだが、優れた映画音楽家というのはそこで「いや、待ってね」と疑問を呈するものらしい。武満徹と八木の映画音楽『涙を、獅子のたて髪に』(監督:篠田正浩、62)、『日本脱出』(監督:吉田喜重、64)はそうした表現を模索していた。そしてここからまた私自身が相倉寄りになってしまうのだが、70年代後半の八木の映画音楽にはそうした実験性はとても希薄になっていることも確かなのである。もちろん東映のプログラム・ピクチャーがそうした音楽を必要としていなかったのだとも言えるが、キャッチーな楽曲を画面に乗せる『イージーライダー』的方法にぴたっと寄り添い過ぎているのも間違いないところだ。
ついでに記しておくと『白昼の襲撃』サントラ盤(東宝ミュージック)は最近リリースされた。有名な楽曲は「スネイク・ヒップ」で、これは日野のアルバム「ハイノロジー」(タクト)に収録されている。といってもオリジナル・アルバムには未収録。多分CD化された際のいわばボーナス・トラックだろう。この時代の日野が一番好き、なんて本人に聞かれたら怒られるだろうが、何せ、テレビの帯番組で日野のトランペット演奏が毎日かかっていた頃のものだから思い入れがどうしても入ってしまうのだ。私は当時小学生だった。ジャズファンだったわけはないが、かっこいい大人の音楽に憧れていたのだと思う。