映画の中のジャズ、ジャズの中の映画 Text by 上島春彦
第40回 60年代日本映画からジャズを聴く   その2 井上梅次のジャズ映画時代
男と楽団、嵐を呼ぶぜ!
日活アクション映画史といういわば「局所における井上の役割」が57年から59年にかけて劇的に転換するのが見てとれる。しかしこれで井上の映画監督としての活力が尽きたわけではない。日活アクションに共通の「誰にも譲り渡せぬ“自己”という信念、或いはそうした信念への憧憬」という固定的イメージを渡辺武信が強調する時、そこに取り上げられる映画監督各々はそれぞれの作品においてそうした概念との「それぞれの距離」として現れざるを得ない。渡辺の論拠は日活映画史的には正当なものだが、井上の日活「本流アクション」映画からの脱落が、同時に東宝「ジャズ・エンターテインメント」映画への再登録として見えてくるのはむしろあって全くおかしくない事態である。大映でも後年『黒蜥蜴』(62)という傑作を井上は撮るが、そこまで拡張して彼のフィルモグラフィを検討していくと、裕次郎映画に典型的な「貫徹される自己像」の方が例外だったのでは、と思われてくるほどだ。 なお単純に音楽映画的な側面から『嵐を呼ぶ男』と『嵐を呼ぶ楽団』を比較すると前者はあまりに不備が多い。この点は渡辺武信も同書できちんと指摘している。引用する。

彼が「俺らはドラマー、やくざなドラマー…」とはじまるこの主題歌を唄いだすシーンは当時もっとも評判になったものだ。しかし、再度見なおすと、このシーンは意外に白けた印象しかない。なぜなら、裕次郎がこの時唄いだすというのはあまりにも突然だからである。つまりストーリーの中に裕次郎が唄も歌えるということの伏線が全くないのだ。(略)この唄自身にしても、いきなり即興で歌ったという設定はいかにも無理で、本当なら同じ唄をあらかじめ別のシーンでさり気なくつかっておく“売り”がなくてはならないところである。(略)中心的なシーンからしてこのとおりだから、この映画の演奏シーンは全然おもしろくない。(略)『嵐を呼ぶ男』は裕次郎を唄わせるという一点をのぞいては、ステージのシーンを魅力として生かしきれなかった。

即ちジャズ映画としての「魅力」――というか「演出の周到さ」――で比較すれば『嵐を呼ぶ男』よりも『嵐を呼ぶ楽団』の方がずっと上だということだ。
ここで押さえておきたいのは『嵐を呼ぶ男』が実はアメリカ映画『栄光の都』“City for Conquest”(監督アナトール・リトヴァク、40)にインスパイアされた企画だという事実である。渡辺書の脚注にも「この映画の人物配置は兄がドラマーではなくて、ボクサーであることの他は、『嵐を呼ぶ男』そっくりである。兄はジェームズ・キャグニー、弟はアーサー・ケネディが演じた。(この項、和田誠の教示による)」とある。ついでに言うとこの映画には俳優として若き日のエリア・カザンも出てくる。日活アクションにおける兄弟の葛藤というテーマはこの原作映画にも既にあり、これを原型の一つとして様々に発展、展開させていくのだととりあえず言えるのだろうが、本稿的な理解で述べると、そうした兄弟キャラクターの系譜よりも監督井上梅次の「アメリカ映画好き」を証明する一本として『嵐を呼ぶ男』を位置づけたいのだ。そしてそうした視点で改めて『嵐を呼ぶ楽団』を見ればさらにもう一本のアメリカ映画が浮上してくるのに気づかされる。『世紀の楽団』“Alexsander’s Ragtime Band”(監督ヘンリー・キング、38)である。

この作品はアーヴィング・バーリンの様々な楽曲(そこには当然、英題となった「アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド」も含まれる)をフィーチャーした音楽映画でミュージカル映画、というよりはそのサブ・ジャンルとしての「楽団」物の典型となっている。主演はタイロン・パワーとアリス・フェイ。二人が惹かれあいながらも意地の張り合いで離ればなれになり、やがて誤解も解けて周囲の協力で結ばれる物語である。このキャラクター配置が『嵐を呼ぶ楽団』のピアニスト兼バンド・リーダー宝田明とスター歌手雪村いづみに反映されている。親友のトランペッター高島忠夫はドン・アメチーに、もう一人の女性歌手朝丘雪路はエセル・マーマンに、それぞれ対応すると見て良い。ただし、そうは言っても単純に二本の『楽団』を「オリジナルとリメイク作品」とする必要はない。似ているところも異なるところもいくらでもあるから。その手の堅苦しい判定は本稿の意図するものではないとのみ記しておこう。

一方、『嵐を呼ぶ楽団』の他のキャストを数名あげれば。ギタリストに水原弘。ベースは神戸一郎。サックス江原達よし(「りっしんべん」に台)。ドラムス柳沢真一。これらの面々がいったんはリーダー宝田明の下、楽団ブルースターに集いながら離合集散するコンセプト。この映画の愉しさはキャッチーな楽曲で観客の興味を惹きつけるというのではなく、むしろその時点におけるジャズの歴史をたどるショーとそれ以降のバンドマン達それぞれの唄や踊りのバラエティ豊富さに尽きる。ショーの構成はいわば「アレキサンダーズ・ラグタイム・バンドからスタン・ケントン楽団まで」とでも言うべきコンセプトに貫かれており、このパートだけでも飽きさせない。こういう趣向は当然ながら日活よりも東宝に一日の長というか伝統的な強みがあるわけで、井上梅次としてもしてやったりという感じだっただろう。