映画の中のジャズ、ジャズの中の映画 Text by 上島春彦
第26回 アンドレ・プレヴィンのジャズ体験   その1 「ラプソディ・イン・ブルー」はジャズか?
  2010年11月、NHK交響楽団首席客演指揮者アンドレ・プレヴィンは定期演奏会のプログラムで武満徹「グリーン」、プロコフィエフ「交響曲第五番」と共にジョージ・ガーシュイン「コンチェルト・イン・F」(ピアノ協奏曲ヘ調)を、これは自らのピアノ演奏により指揮した。プレヴィンはコンサート・ピアニストとしても超一流で、とりわけ知られるのがラフマニノフとガーシュイン。今回の弾き振りでも譜面なしで演奏していた。2011年にはN響を引き連れての北米公演が予定されている。そこでも武満とプロコフィエフは演奏されるとのこと。ガーシュイン作品はちょっとわからないが、この一曲に関しては既にCD(本来はレコード)「アンドレ・プレヴィンとロンドン・シンフォニー・オーケストラ ガーシュイン:ラプソディ・イン・ブルー パリのアメリカ人 ピアノ協奏曲ヘ調」“Gershwin:Rhapsody in Blue/An American in Paris/Piano Concerto”(EMI)のタイトルで発売されている盤が有名だ(このアルバムはジャケットを見る限り、指揮者とロンドン響の名前の方が楽曲よりもセールスポイントになっているらしい)。録音は1971年。
  特にプレヴィンが意識してそうなったのかは不明だが、今回取り上げた作曲者は三人とも優れたオリジナルの映画音楽を作った人々だ。映画音楽においても「大家」と言ってもいい。とりわけ武満とガーシュインは「ジャズと映画史」的な側面からも様々な興味深い仕事をしている。武満徹に関してはいずれ取り上げる機会もあるはずだ。今回はガーシュインに注目することになる。
   と、ここまで書いて肝心なことを書き落としているのに気づいた。というか知っている人には常識の範疇なのだが、もともとアンドレ・プレヴィンという音楽家はまず映画音楽の世界の人なのである。ミュージカル映画『マイ・フェア・レディ』(64)の編曲でアカデミー賞を獲得している。これは近年、同題サントラ盤“My Fair Lady, The Original Soundtrack Recording”(Sony)も発売(従来盤よりも、未発表曲収録などの余得あり)されている。他にも三回オスカーを獲得しているが、その代わり16回落ちていると本人は語っているそうだ。受賞、落選ともに回数は幾つかバージョンがあるらしい。そういう次第で、ひょっとすると意図的に映画音楽に関わりのある三人の作曲家を今回のプログラムに組み込んだのではないか、と考えて上記の記述となったわけだ。本連載の主題からは外れる映画作品も多く、網羅的にプレヴィンのキャリアを追うということはしないが、今回から数回にわたってプレヴィンの映画音楽とジャズの関わりについてのみ記していきたい。

   というところでさらにもう一つ書き落としているのに気づいた。プレヴィンはコンサート・ピアニストとして超一流、と書いたがそもそもジャズ・ピアニストとして世に出た人で、こちらのジャンルにも数多くの傑作を残しているのである。その初期の代表作がシェリー・マン(ドラムス)のトリオにピアニストとして参加した「マイ・フェア・レディ/シェリー・マン」“My Fair Lady, Shelly Manne&His Friends”(Contemporary)だ。これもまたジャズ愛好家ならば常識の範囲だが、まず最初にこのことを書いておかなければいけなかった。ガーシュインをプレヴィンが演奏する、というプログラムのコンセプトにはこうした二重三重の音楽史的経緯が存するのである。

  問題の「コンチェルト・イン・F」だが、ついさっき久しぶりに『アメリカ交響楽』“Rhapsody in Blue”(監督アーヴィング・ラパー。45)をDVDで見直したら、映画の中でやっぱり演奏されていた。サブタイトルが「ジョージ・ガーシュイン物語」だから当然だ。これはガーシュインの伝記映画なのである。彼に扮したのはロバート・アルダ。映画の中では死ぬ直前に作曲されたことになっているが、あくまで物語の都合によるもので実際は1925年の発表。映画のガーシュインはこの曲を自らのピアノで聴衆に披露する、まさにそのさ中に指をもつれさせ、オーケストラにきちんと合わせることが出来ない事態を招く。その場は何とか取り繕うものの、ショックを隠せない。実はこれが、密かに進行していた彼の脳腫瘍の症状の初めて外に現れた瞬間だったのである。やがて彼が死に、そのニュースがガーシュインの演奏会の最中の聴衆にもたらされた時、彼の親友のピアニスト、オスカー・レヴァントが弾いていたのはやはりこの「コンチェルト・イン・F」だった。どうやらこの曲は映画にとって死の主題、あるいは凶兆の主題を為すものらしい。
   この曲については後述するとして、では「死」に対抗する「生」、「凶兆」に対する「吉兆」の主題に当たるものは何か、と問うならば、それが「ラプソディ・イン・ブルー」なのである。「コンチェルト・イン・F」に一年ほど先立ち作曲(発表)され、ガーシュインの評価を一晩で確立したと言われる一曲。今回はこの曲から物語を始めよう。

   このアメリカ「現代音楽」の幕開けを象徴する「クラシック」が、果たして「ジャズ」でもあるのか、と改めて考えると、きっと意見は真っ向から二分するであろう。別にジャズでもクラシックでも(現代音楽でも)本来ならば全然構わないわけだが、この連載はそれがテーマなので否が応でも最初に考察せざるを得ない。ジャズじゃないでしょ、と主張する人は「管楽器なりピアノなりのプレイヤーがテーマとそれに基づくアドリブを繰り広げてこそ本物のジャズである」ということになるし、一方ジャズ派は「こういうのだってれっきとしたジャズだ、アドリブがなくてもオーケストラル・ジャズの元祖だ」ときっと言うだろう。ここはやはり連載上も何らかの規定が必要であり、それなりにけじめをつけるべきだろうからさっさと書いておく。これはジャズではありません。これがジャズだとすると、連載自体のコンセプトが再編されないといけなくなるのできちんとしておく。ただし、現にこれを演奏していた人たちが、その環境下においてこれをジャズだと考えていたのは後述するように紛れもない事実である。結局「ジャズという音楽」の概念規定というか定義自体が「ラプソディ・イン・ブルー」が発表された1924年と現在とでは異なるから、こういうことになるのは当然だ。アンドレ・プレヴィンからは話題が離れることになるが、少し詳しくこの件を見ていきたい。
   1924年1月3日の夕刻、ジョージ・ガーシュインの兄で作詞家のアイラは、ビリヤードに興ずるジョージの傍らで翌日の朝刊をチェックしていたが、我が目を疑って突然叫んだ。「お前、今ジャズ・コンチェルトを作曲中で、それを2月12日にポール・ホワイトマンの楽団で演奏するらしいぞ! ホワイトマンが広告でそう言っているぜ」
   ジョージも寝耳に水だった。どういうことかとホワイトマンに電話で問い合わせると「いいアイデアはすぐに盗まれるからね、君には素晴らしいジャズ・コンチェルトが書けるとひらめいたんだ、よろしく頼んだよ」という返事。ホワイトマンは既に「アメリカ音楽とは何か?」と銘打たれたコンサートをニューヨークはマンハッタンのエオリアル・ホールで開催することまで新聞発表していた。こうして彼は初めての演奏会用書きおろしの「ジャズ・コンチェルト」を何としても一カ月で完成させることになったのである。見て来たようなことを書いているが、このあたりの記述は「もうひとつのラプソディ ガーシュインの光と影」(ジョーン・ペイザー著。小藤隆志訳。青土社刊)「ガーシュイン 我、君を歌う」(イーアン・ウッド著。別宮貞徳訳。ヤマハミュージックメディア刊)「ラプソディ・イン・ブルー―ガーシュインとジャズ精神の行方」(末延芳晴著。平凡社)等を参考にしていることをお断りしておく。ついでに書くとイーアン・ウッドによる、この場の情景は少し異なるのだが、こういう話は面白い方が書いても愉しいので愉しい方を採用した。

   ではポール・ホワイトマンとは何者か。いや、それに答えるにはそもそもジョージ・ガーシュインとは何者か。これらの疑問への応答から始めねばなるまい。
   ジョージ・ガーシュイン、作曲家、ピアニスト、1898年生、1937年病没。ロシア系ユダヤ人移民の次子としてニューヨーク、ブルックリンに生まれた彼は、本来は兄アイラのために購入された中古ピアノにアイラ以上に興味を示し、音楽の世界に入っていくことになった。伝説的に語られるのは家にピアノが届けられると早速、初めて触れる楽器で、既製曲をそらで弾き始めた、というエピソード。映画でもそうなっていた。どうやらそれ以前から楽器屋のデモンストレーション用ロール・ピアノ(後述)でピアノになじんでいたらしい。ニューヨークの楽譜商が軒を並べる通り、いわゆるティン・パン・アレーの一角で営業するレミック社に15歳で職を得たガーシュインはめきめきと頭角を現す。ガーシュイン音楽のレコードやCDのライナーノーツによく「楽譜セールスマン」と紹介されているのがこの時に得た仕事であるが、別に楽譜を売って歩くのではない。お客さんの方がティン・パン・アレーに楽譜を買いに来る。それぞれの家で娯楽のために弾く、それ用の楽譜なのである。店先では、ピアニストが客のために楽譜の中からお勧めの曲を演奏する。このへんの描写も『アメリカ交響楽』にちゃんとあった。こうした楽曲デモンストレーション・ピアニストを「ソング・プラガー」と呼ぶが、ガーシュインは、やはりロシア系ユダヤ人移民で十歳年長のアーヴィング・バーリンと共にこの職種出身の代表的な作曲家ということになる。1919年に書いた「スワニー」“Swanee”がアル・ジョルスンによって歌われ大ヒットしたことから、あっという間に流行作曲家となったガーシュインに次に訪れた飛躍のチャンスがホワイトマンからの作曲依頼だったのである。
   ジョージはポピュラー音楽の作者として世に出、それによって得た莫大な利益や方法的蓄積を存分に利用して、没するまで活躍し続けた。「スワニー」が21歳、「ラプソディ・イン・ブルー」が26歳、亡くなったのが39歳というのはまさしくモーツァルト的「神童の生涯」である。映画『アマデウス』でモーツァルトのイメージが一気に若返ったように、誰か今からでもガーシュインの生涯を『アメリカ交響楽』よりもぐっと若返らせて創作してくれないだろうか。
   そしてポール・ホワイトマン。この男は『アメリカ交響楽』に本人として出演していたので、ビデオ、DVDを見た方はそのイメージを鮮明に記憶していらっしゃるに違いない。相撲取りのような巨体に愛きょうあるちょび髭のオーケストラ・リーダーで自らを「キング・オブ・ジャズ」と名乗った。同タイトルの映画『キング・オブ・ジャズ』“King of Jazz”(監督ジョン・マレイ・アンダーソン。30)もある。日本未公開かと思ったら31年にちゃんと上映された模様。これは結構とんでもない映画で、今簡単には見られない(日本版ビデオ、DVDがない)のがあまりに惜しいが、逆に言うと1931年の日本でこんな「ほとんどアヴァンギャルド映画」、しかもテクニカラー(初期)映画が見られたとは、まさしく奇跡である。さて既に書いたが彼がガーシュインに依頼したのが「ジャズ・コンチェルト」で、ホワイトマン自身「ジャズの王様」なのだから当然ながら「ラプソディ・イン・ブルー」はジャズである。さっき書いたことと早速矛盾しているが、要するにホワイトマンがやっているのは「当時のジャズ」なのだ。本連載においてはジャズとは大まかに言えば「モダン・ジャズ」を意味しており、これは一つのスタイルでありまた歴史的にも1940年代中頃の成立と規定し得るものである。従って、それ以前の「歴史的様式」を持つジャズには「スイング・ジャズ」「ニューオリンズ・ジャズ」等、頭に特別な冠をつけて呼び慣わしている。ポール・ホワイトマンがいくら「ジャズの王様」でも本連載的にはジャズではない、とはそういう厳密な規定からである。

   ここでジャズという音楽の成立を少しだけおさらい。ジャズが生まれたのは20世紀初頭のニューオリンズであった。その源流が、ミシシッピー河の河口の奴隷市場でアフリカ系奴隷の演じていた踊りと歌にあるというのも歴史的に動かし難い事実。19世紀半ば以降、紀行文や音楽学者の記譜の形でそれがヨーロッパに伝わり始めている。あくまで源流だからまだジャズではない。今からおよそ百年前の世紀の替わり目は、アメリカばかりでなく、というよりアメリカ以上にヨーロッパにおいてこそ「民族音楽」の価値が称揚されるようになっていた。貴族や有力スポンサーの後ろ盾により成立した、いわゆるクラシック音楽に対して、作者不明の民衆的な伝統音楽が見直される時期を迎えていたのである。やがて20世紀初頭には初期の録音システムを用いて世界各地の民族音楽が録音されるようになるが、アメリカにおけるジャズとはいわばこのような「発見された」世界の民族音楽との拮抗状態を体験することで刺激を受け、成長を遂げた音楽だとも言える。カリブ海近辺の音楽を汲みあげながらアフリカ大陸から到着したリズムや歌がいわばアメリカとアフリカの最初の音楽的接近遭遇であり、さらにはそうした稀有な音楽的アマルガム状態がヨーロッパ人にも興味深い事例として感受されるようになる。
   黒人の演奏家がニューオリンズ周辺で繰り広げていたある種の音楽は、1900年代最初の十年代には今で言う「ニューオリンズ・ジャズ」として一定の形を整えていたものらしい。1917年にそれはODJB(オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンド)による演奏として初録音されているが、これはメンバー全員が中産階級白人であった。そのために以後「ディキシーランド・ジャズ」と言う呼び名だと白人が、「ニューオリンズ・ジャズ」と言えば黒人が、演奏する場合を指すという慣習となっている。音楽的特徴はここでは詳述しないが、軍楽隊起源のマーチング・バンドや、黒人霊歌、初期のブルース(これも黒人による)等から発達したニューオリンズ・ジャズと、そのほぼ同時期、黒人ピアニスト達によって演奏されたラグタイム、ブギウギ等の音楽(ニューオリンズ・ジャズはピアノが入らないからこれで音楽的には補完された感じか)、これらがやがてシカゴ、カンザス・シティ、ニューヨーク、サンフランシスコ等へと飛び火し、1930年代アメリカ・ポピュラー音楽の基礎を形成することになるというのが、ジャズ成立及び伝播の大まかな物語である。

   そこでポール・ホワイトマンとジョージ・ガーシュインはこの物語のどこに位置するか。話は、最初に述べた寝耳の水の新聞広告から二年ほどさかのぼる。
   気鋭の舞台プロデューサー、ジョージ・ホワイトは準備中の大型レビュー「1922年のスキャンダル」にホワイトマン楽団を雇いいれた。ガーシュインは既に「スキャンダル」シリーズには作曲家として全面的に「1920年」から参加している。もともと、ホワイトマンはデンヴァー交響楽団指揮者の息子として生まれ、ヴァイオリンとヴィオラの専門教育を受けたれっきとしたクラシック音楽奏者だが、ダンスバンド・ミュージシャンの方がはるかに実入りもいいのを知ると、喜んで鞍替えし1920年には自分のバンドを持つまでになった。その彼がこのショーで演奏した一曲が「ステアウェイ・トゥ・パラダイス」“I’ll Build a Stairway to Paradise”だった。これは映画『巴里(パリ)のアメリカ人』“An American in Paris”(監督ヴィンセント・ミネリ。51)で大々的に再現されていたのをご覧になった方も多いだろう。これは最も典型的なジャズの音階「ブルーノート」(三度と七度が半音低い)を特徴的に使用しており、果たしてレビューに相応しいかどうかは未知数だと思われたがホワイト自身は大いに気に入り、そして事実大評判を取った。またレビューの中ではうまく機能せず評判も散々だったが、もう一曲「ブルー・マンデー・ブルース」“Blue Monday Blues”にもホワイトマンは感銘を受けた。彼が「アメリカ音楽とは何か?」と題されたコンサートを企画した際に、ジャズとしてイメージしていたのはまさしくジョージ・ガーシュインのこうした楽曲だったのである。

   問題のこのコンサートはMCの以下のような開会の辞と共に始まる。
   「この試みは純粋に教育的なものです。ホワイトマン氏が目指すものは、オーケストラと協力者の力添えによって、ポピュラー音楽の流れを示すことです。およそ十年前にいずこでともなく発生した不協和のジャズの時代から、今日のまことに旋律的な音楽まで、巨大な歩みがありました」(別宮貞徳訳)
   プログラムは途中に休憩を挿んで11もの小コーナー、全25曲から構成されているが、この言葉から大ざっぱにそのコンセプトをまとめるならば「この十年におけるジャズの変遷」と名づけることが出来るだろう。ラストはエルガーの「威風堂々」(これはさすがにクラシック)で締めるものの、その前がガーシュインの「ラプソディ・イン・ブルー」であり、この曲によりこの企画が現在まで語り継がれるものになったのは間違いない。
  というわけでプレヴィンの話に入る前に長々とガーシュインの件を語ることになってしまった。この話題は当分続く。興味のある方はCD「エッセンシャル・ジョージ・ガーシュイン」“The Essential George Gershwin”(Sony)を来月までに聴いておいて下さい。(続く)