映画『バード』のサントラ盤ライナーノーツにレナード・フェザーはこう記している。
「チャーリー・パーカーが芸術的な奇跡を体現したならば、レニー・ニーハウスとボビー・フェルナンデスを頭とする彼のエンジニア陣も、正に技術上の奇跡を成し遂げたと言える。その複雑極まりない方法は、後日オーディオ雑誌に詳細な解説を頂けるとするけれども、要するに彼等は、バードのオリジナル・ソロを一音一句保存するために、セレクティブ・イコライジィングやダイナミック・ノイズ・フィルターといった機能を用いて不用な周波数を一切除去し、バードの音のみを残すことに成功したのだ」(訳・小山さち子)
 
この点については前回ふれてあるのでこれ以上は書かない。ニーハウスはサントラの製作者として、フェルナンデスはエンジニアとして、それぞれクレジットされた。「このプロジェクトは、映画とCDの制作に関わった人々全員に捧げる愛の結晶であり、個人的には私の人生で最も感動したものの一つである」(訳・安江幸子)とニーハウスは上記フェザーに続けて述べている。映画(及び本CD)冒頭に聴かれる「レスター・リープス・イン」“Lester Leaps In”が作品の性格を最も典型的に示すトラックと言えよう。パーカー未亡人チャン提供によるハーレムのロックランド・パレスからの実況録音を使用した音源で、新たに彼の伴奏を務めているのはモンティ・アレキサンダー(ピアノ)、レイ・ブラウン(ベース)、ジョン・グエリン(ドラムス)のトリオである。他のトラックにはロン・カーター(ベース)、ジョン・ファディス(トランペット)、ウォルター・デイヴィスJr.(ピアノ)等の後続世代が参加しているが、劇中にもパーカーの友人として登場するレッド・ロドニーが「ナウズ・ザ・タイム」“Now’s The Time”にトランペッターとして参加演奏していることを特記しておこう。
 
また本作はアカデミー賞1988年度最優秀録音賞を獲得している。受賞者はリック・アレクサンダー、レス・フレショルツ、ヴァーン・プーア(いずれも「サウンド再録音ミキサー」として)、そしてウィリー・バートン(サウンド・ミキサー)の四人。フレショルツは既に『大統領の陰謀』でもオスカーを獲得したキャリアを持つ。前三者は『ハートブレイク・リッジ』から引き続いての担当で、イーストウッド組といって差し支えないだろう。本作評価のかなりの部分がチャーリー・パーカーのオリジナル録音を水際立ったやり方で再利用した点にあったのは明らかだが、技術的な面でレニー・ニーハウスが貢献したのではなかったから受賞メンバーには入らなかった。そのこと自体は当然だとしても、ならばニーハウスの映画への貢献はどのように評価されたか、と改めて問うと公式には結局何もない。クレジットでニーハウスは音楽(ミュージック)ではなく、音楽総譜(ミュージック・スコア)となっていてこれまたかえって役割がわかりにくくなってしまった。音楽監督というより編曲担当に過ぎない印象。この点に限っては残念な結果である。それにしてもこうしてサントラとフィルムのクレジットを読み比べると、事実的な担当者が誰でどのように仕事をしたのかかえってわからなくなってくる。
 
ただし、これ以降ニーハウスはイーストウッド組の再重要メンバーの一人となり『ホワイトハンター・ブラックハート』(90)『ルーキー』(90)『許されざる者』(92)『パーフェクト・ワールド』(93)『マディソン郡の橋』(95)『目撃』(97)『真夜中のサバナ』(97)『トゥルー・クライム』(99)『スペース・カウボーイ』(2000)『ブラッドワーク』(02)を担当することになる。近年は『ミスティック・リヴァー』(03)『ミリオンダラー・ベイビー』(04)『父親たちの星条旗』(06)『チェンジリング』(08)におけるクリント・イーストウッド、『硫黄島からの手紙』(006)『グラン・トリノ』(08)におけるカイル・イーストウッド等が音楽を担当する際にそれを補佐する「編曲者、指揮者」という形でのクレジットが増えているが、これもまた最重要「組員」として遇されている証しであろう。
  『バード』はイーストウッド監督作品としては、かなり位置づけが難しいというか曖昧な作品になっている。その理由は単純でイーストウッドが出演していないからだ。イーストウッドが監督に専念した作品は『愛のそよ風』(73)以来二度目(テレビを除く)のことになるが、良くも悪くもいかにも「小品佳作」という風情の前作に比べると、今回の『バード』は堂々たる大作。従って、当時のイーストウッドのアメリカ映画界での位置からするとマネーメイキング・スターたる彼を俳優として起用しない点で極めて異例と言える。実は、監督業に専念している近年の彼のやり方を先取りしていたのだが、そんなことはリアルタイムではわからないから「異色のノースター大作音楽映画」としかセールスされようのない企画となっていた。監督に専念する件も業界内では半信半疑。半分ジョークだ(と思う)がイーストウッド自身、オリジナル脚本をコロンビアからすんなりと譲ってもらった事情を語ったインタビューで、「クリント・イーストウッドがチャーリー・パーカーをやるジャズ映画じゃ成功するはずがない」と相手側は思ったのだ、と述べている。
 
結局パーカーを演じることになるのはフォレスト・ウィテカー。当たり前だが黒人だ。ミスキャストを指摘されることもあるが、もしもコロンビアで映画化されていたら主演はリチャード・プライヤーだったという説があり、それに比べればずっとましであろう。いや、この際そういう消極的な反応は控えたい。ウィテカーがパーカーを演じたことによって伝説的なインプロヴァイザーたるパーカーの怪物的な側面は弱められ、弱気な黒人インテリみたいな雰囲気が醸し出されることになったわけで、これは一つの解釈と言える。ウィテカーとしてはマーティン・スコセッシ監督『ハスラー2』(86)、オリバー・ストーン監督『プラトーン』(86)、バリー・レヴィンソン監督『グッドモーニング、ベトナム』(87)等で注目されて後、ついにつかんだ主役の座。結果カンヌ国際映画祭では最優秀男優賞に輝いた。
 
本項の最後に少しだけ『バード』という映画に関する批評的な視点を記述しておく。
 
フィルムを貫く決定的なイメージはゆっくりと宙を舞うシンバルである。これは誰が見てもそうで、『バード』を論じてこれに言及しない者はまずいない。そのコンパクトで面白い批評は中条省平のちくま文庫「クリント・イーストウッド アメリカ映画史を再生する男」(筑摩書房)の第8章「アメリカ人の人生に第二幕はない」にある。音声演出が画面編集を規定していることを冒頭「レスター・リープス・イン」の演奏されるジャズ・クラブから「飛ぶシンバル」「ホテルの部屋の開閉」へと繋がる場面で手際よく紹介しているのだ。「時間と空間を超え、音の連繋とイメージの運動の相似性によって自在に接続されるこの数分間のイントロダクションは、これまでのイーストウッドの映画話法にはけっして見られなかった複雑さを秘めている」と総括する中条は「物語の現在を一九五四年(パーカーの死の前年)」に置き、「フラッシュバック(回想)」と「フラッシュフォワード(予見)」を繰り広げる説話構造をプルースト的と評している。
 
本連載はイーストウッド論を展開する場所ではないのでこれ以上は現物をあたっていただくとして、ジャズ批評家でもある中条はこの「飛ぶシンバル」がフィクションではなく「パーカー史上」最も有名なある出来ごとに由来するものであることを指摘するのを忘れない。これは「チャーリー・パーカーの伝説」(ロバート・ジョージ・ライズナー編。晶文社)と「バードは生きている チャーリー・パーカーの栄光と苦難」(ロス・ラッセル。草思社)この二冊の重要なパーカー本にも語られているが、中条が引用するのは「JAZZ HOT ジャズ・ジャイアンツ・インタヴュー集」(フランソワ・ポスティフ編。JICC出版局)のベーシスト、ジーン・ラミー(別にこの名前は仮名とか匿名ではなく、こういう名前のジャズマンが実際にいた)である。(続く)