映画の中のジャズ、ジャズの中の映画 Text by 上島春彦    第17回 クリント・イーストウッド映画と「趣味としての」ジャズ   その2
『ガントレット』“The Gauntlet”は1977年のイーストウッド製作監督主演作品。

イーストウッドが自身の製作プロダクション・マルパソを拠点に主演俳優と同時に演出をも務めるというシステムは70年代初頭の『恐怖のメロディ』(71)から始まり『荒野のストレンジャー』(72)、『アイガー・サンクション』(75)、『アウトロー』(76)と続いて、いよいよ『ガントレット』となる。これらを見た者ならば容易に想像されるように、『ガントレット』は明らかにひとけた(とは言い過ぎかも知れないがとにかく)予算が違うのだ。満を持して、といったところか。ところが内容的には「アクション・ロードムーヴィー」とでも言ったらいいのか、男女が様々な交通機関を乗り継いで目的地へ向かうというもの。当然その間に恋が芽生える。

喜劇的なテイストも加味され、大作というよりもB級アクションに相応しい題材だ。男はもちろんイーストウッドで、女はソンドラ・ロックである。彼女は『アウトロー』でもイーストウッドと共演していた。カーソン・マッカラーズ「心は淋しい狩人」の映画化、ロバート・エリス・ミラー監督『愛すれど心さびしく』(68)では準主役級だったとはいえ、大作で主演クラスというのは初めてで大抜擢と言える。この映画でイーストウッドと出来てしまい、長らく愛人関係を続けたが結局ドロドロの破局を迎えたというのも有名な話。少し有名になりすぎてしまった感じもあるが、そのあたりの事情は前回紹介したイーストウッドの伝記を読んでいただく他ない。今回イーストウッドが演ずるのはアリゾナ州フェニックス市警察のアル中警官ベン・ショックリー。警視総監ブレーロックに呼びつけられた彼は、ある事件の証人をラスベガスから連行する任務を命ぜられるが、その証人オーガスチン(ソンドラ・ロック)は身の危険を感じ怯えるばかりである。事実、彼らの道中には次々と困難が待ち受ける。その背後に市警幹部の謀略とりわけブレーロックの影が見え隠れしていることにやがて気づいたベンは二人して、目的地というより今や敵地と呼ぶべきフェニックスに乗り込んでいく。

映画のタイトルをなす「ガントレット」というのは「二列に並んだ兵士に鞭打たれながら歩んでいく」という処刑方法で、フローベールの歴史小説「サランボー」の題材にもなっている。ここでイーストウッドは乗っ取った大型バスを改造、内部から鉄板で補強して警官隊の銃列が両側から待つ市街地を突っ切り裁判所を目指すのであった。このシチュエーションが即ちガントレットだ。車体を数千の銃痕で蜂の巣にされながらも、彼らのバスがゆっくりと進んでいくクライマックスが、イーストウッド映画屈指の名場面として記憶されている。もっとも最初の公開当時はこの場面を非現実的として嘲笑する者も多かった。あれだけ弾丸が発射されてタイヤが無事なのは間違いだというのである。そのこと自体はそうかも知れないが、よく考えたら、それならば「タイヤをパンクされながらもバスがじわじわ進んでいく」というシチュエーションにしてしまえばすむ話である。物語的には、あるいは映画的には「バスが止まってしまう」ことの方が間違いなのだから、このクライマックスはどこも間違いではない。耐えなければガントレットにならないのだ。この問題に関してはいずれまたふれることになるかも知れないが、例えばイーストウッドのハリウッド復帰作『奴らを高く吊るせ!』で彼はリンチに遭って吊るされる男として画面に登場した。殺されても死なない、あるいは殺されても蘇るというのが彼の映画的キャラクターであり、このあり方は『荒野の用心棒』クライマックスから変わらない。『ガントレット』のクライマックスにおけるバスもそういう存在なのである。

 さて、この圧倒的なガントレット・シチュエーションを音楽的に支えるのがジェリー・フィールディングによるジャズスコアだ。フィールディングは1980年に亡くなっているが、60年代から70年代にかけてハリウッドを大いに活気づけた人材である。もう一人の「ジェリー」即ちジェリー・ゴールドスミスと並んで、ある時代のアメリカ映画のジャズ調管弦楽の響きを代表する音楽家と呼べる。ゴールドスミスの『猿の惑星』(68)、フィールディングの『ワイルドバンチ』(69)というのが要するにそういう「音の響き」だと思ってもらえば良い。二人は共に同時期、作曲家マリオ・カステルヌオーヴォ・テデスコ門下であったから、そういうキャリアが影響しているのかも知れない。ゴールドスミスに関しては原稿を改めるとして今回はフィールディングのお話。
 ジェリー・フィールディング、本名ジョシュア・フェルドマン。ペンシルヴェニア州ピッツバーグ生まれ。クラリネット奏者として音楽の道に入り、アルビノ・レイ、トミー・ドーシー、チャーリー・バーネット各楽団のためのアレンジャーとしてキャリアを積む。第二次大戦中、ケイ・カイザー楽団のチーフ・アレンジャーであったジョージ・ダニングの後釜として名前をあげた。戦後ジャック・パー・ショーのバンドリーダーとなった際にいかにもユダヤ系という本名から「ジェリー・フィールディング」に改名している。このあたりの履歴は「サントラ音盤大図鑑」(洋泉社)に全面的に拠っている。著者は青木啓、岩橋順一郎、清水英雄の連名。ここに記して感謝する。しかしここに書かれていない事件が彼のキャリアに大きな影を落としているのを付け加えておきたい。赤狩りである。彼は極めて珍しいことに俳優、脚本家、製作者、監督でなく一スタッフ(音楽家)として公聴会に召喚され、証言拒否してハリウッドを追放された過去を持っているのだ。
一件のきっかけは彼がテレビ番組「ユー・ベット・ユア・ライフ」の音楽担当者だったことに端を発する。番組ホストのグルーチョ・マルクスを「仕留める」のが目的だった公聴会において本来の「カモ」グルーチョは何とか切り抜け、その代わりにフェルドマン、後のジェリー・フィールディングがブラックリストに載せられてしまったのであった。映画界、テレビ業界を追放されると彼はラスベガスに拠点を移し、何とか生き延びる。映画に彼が復帰するのがオットー・プレミンジャー監督の1962年作品『野望の系列』“Advise and Consent”だというのも興味深い。この時期のプレミンジャーはブラックリスティーを起用することを自身の映画製作のモチベーションにしていたから、フィールディング起用もその一環だと想像されるのだ。一説には脚本家ドルトン・トランボが両者を仲介したともいわれる。(続く)