映画の中のジャズ、ジャズの中の映画 Text by 上島春彦    第16回 クリント・イーストウッド映画と「趣味としての」ジャズ   その1
現在、監督最新作『インビクタス 負けざる者たち』“Invictus”が公開中のクリント・イーストウッドは根っからのジャズ好きとしても知られている。

自身も俳優となる以前、十代の若き日々にオークランド周辺のクラブでセミプロとして、ラグタイム・ピアノやブルース・ピアノを弾いていたとのこと。アメリカの最も誇るべき文化としてジャズをあげる彼は、自身の関わる様々な映画においてジャズを用い、時にはスクリーンでピアノ演奏を披露したりもしている。またジャズ関連のドキュメンタリー作品を制作し、そこにインタビュアーとして登場することさえある(『ストレート・ノー・チェイサー』“Thelonious Monk:Straight,No Chaser”『ピアノブルース』“Martin Scorsese Presents The Blues:Piano Blues”等)。本連載では今回から数回にわたってイーストウッドの映画音楽とジャズの関係を見ていきたい。映画『インビクタス』公開に伴って彼の伝記「クリント・イーストウッド ハリウッド最後の伝説」(マーク・エリオット著・早川書房)も上梓された。スキャンダル暴露の側面も色濃い著作で本連載の興味からはあまり関連づけようのないものだが、一般的な評判は既に高く、セールスも好調らしい。

当然ながら、この本で注目されているイーストウッドとは、現在のアメリカ映画界きっての大スターたる俳優兼監督兼製作者たる彼ということになる。監督としての彼は演出に専念してチャーリー・パーカーの生涯を『バード』“Bird”として描いた。主演兼監督としては『ガントレット』“The Gauntlet”を演出するにあたり、その音楽にふんだんにウェストコースト派のジャズをフィーチャーした。また最新作『インビクタス』の音楽担当者の一人カイル・イーストウッドKyle Eastwoodは名前からわかるように彼の息子(『センチメンタル・アドベンチャー』“Honkytonk Man”で俳優として父親と共演も果たしている)だが、自身のリーダーアルバム(「フロム・ゼア・トゥ・ヒア」“From There To Here”「メトロポリタン」“Metropolitan”他)を持つれっきとしたジャズ・ベーシストでもある。自身主演する監督作品として最後のものになると宣言した『グラン・トリノ』“Gran Torino”ではカイルを音楽担当者に指名しつつ、同題の主題歌を自身で作曲歌唱しているが、これの雰囲気も40年代風スタンダード・ジャズそのものだった。スタンダードといえば『真夜中のサバナ』では音楽にジョニー・マーサーの歌曲を使い、最上の効果を引き出していた。サントラ盤『真夜中のサバナ』“Midnight in the Garden of Good And Evil:Music from And Inspired by The Motion Picture”も発売されている。

このようにあげてくるとジャズに対するイーストウッドの映画作家としての執着は明らかだ。本項でも、もちろん上記作品を含む様々なイーストウッド映画を紹介していくつもりだが、ただし、そのスタンス(紹介する筆者の態度)は監督のジャズへのこだわりというのとは少し異なるものとなるだろう。アメリカが他国に対して誇り得る数少ない優れた文化としてジャズを捉え、であるが故にそれを自作に用いていく、という公式的な理由では納得できない意図不明な何事かを私はイーストウッド作品に感じているからだ。要するにルイ・マルがマイルス・デイヴィスのジャズ演奏を起用して『死刑台のエレベーター』を斬新に仕上げるというのとはちょっとだけ何かが違うのではないか、と思うのだ。うまく言えないのだが、もっと事態は「個人的」なのではないか。要するにジャズはイーストウッドにとってパブリックなものでなく、もっと「徹底」して「趣味」的な領域に属している気がするのだ。この「趣味の徹底」というのがミソというか理解のポイントだ。効果的に仕上げるというよりも、自分の趣味を徹底させられるなら効果的に仕上がらなくとも結構、という感じ。まあそれは極端な言い方だが、そう筆者をして思わしめるものを「イーストウッドのジャズ」は持っている。

そのような感じ方を筆者にさせた理由の一つは、イーストウッド映画のジャズ使用の始まりが『恐怖のメロディ』“Play Misty for Me”からだからに違いない。この映画は、エロール・ガーナーの不朽の名曲「ミスティ」“Misty”をラジオ番組にリクエストしてくる女を「軽く引っかけた」つもりで逆に「罠にはまってしまう」ウェストコーストの有名DJをイーストウッドが演じたものだ。遊びのつもりが深みにはまり、女のせいで商用をブチ壊されるは、恋人を殺されそうになるは、という散々な展開になる。今でいえば女ストーカーだが、当時そういう言葉はなかった。定義する言葉がないと余計恐ろしいもので、そのため「ミスティ」にシワ寄せが来た。別に「ミスティ」自体は全然「恐怖のメロディ」じゃないのだが。自身の初監督作品にわざわざこういう趣向を持ちこむというのがまず凄い。

映画は西海岸が舞台ということでモンタレーのジャズ・フェスティバルの模様も取材され、サックス奏者キャノンボール・アダレーの姿も見える。映画のための設定ではなく、この部分はドキュメンタリーだからリラックスした雰囲気。「ミスティ」のせいで窮地に陥るという映画のキーコンセプトに対して対照的なアプローチとなっている。イーストウッド映画におけるジャズというのは、このような極端な二面性としてまず出現したということ。その点に注目したいのだ。どちらも効果的に映画に用いられているのは確かなのだが、どこか、演出家の配慮というよりもイーストウッド個人のジャズへの倒錯的な愛憎劇を感じさせて居心地が悪い。趣味的領域とはそういう意味である。イーストウッドの変態性という言われ方は一時期よくされた。すっかり国民的映画監督みたいになってしまった『インビクタス』のイーストウッドには相応しくないが、ある時期の彼のマゾヒスティックなパフォーマンスは比喩的な意味でなく映画の変態性そのものだった。その始まりが要するに『恐怖のメロディ』で、これを大成功させて映画監督の仲間入りした彼に対して我々の抱く感情は以後、どこか「いけないものを見てしまった」かのようなやましさと共にある。今でもある。この連載でイーストウッドのジャズ関連全キャリアを追っていくつもりはないのだが、それでも彼がジャズに対して濃密に反応した作品を複数取り上げて見て聴いていこうとは思っている。

次回から聴いていくのはジェリー・フィールディングが音楽を担当した『ガントレット』のサントラ盤“The Gauntlet :music from the motion picture”である。また、そこでアレンジを担当していたレニー・ニーハウスについてもフィールディング同様に重要人物として遇したい。(以下次回)