2009年は山下洋輔トリオの結成から40年を数える。去る7月19日、これを記念したコンサートが日比谷野外大音楽堂で開催された。題して「山下洋輔トリオ一夜限りの大復活祭」。
「山下洋輔って誰?」というような純朴なヒトはこのサイトを読まれるような方々の中にはあんまりいないとは思うが、それでも全く説明しないのも不親切だから一言。日本のジャズピアニストを代表する存在で、いわゆる「フリージャズ」の急先鋒としてこの40年を駆け抜けた男。「フリージャズって何?」というヒトなら多少いるかも知れない。その昔「11PM」というテレビ番組があって、司会はジャズ評論家としても有名な大橋巨泉だったが、彼がある回(70年代中期)でジャズ特集を組んだ時、お客さんとして来ていた素人の女子大生に「ジャズってわけわかんないから嫌い!」と言われた際、「そりゃあんた、山下洋輔でも聴いたんでしょ」と答えたことからわかるように「わけのわからないデタラメなピアノ(には限らないが)でジャズをやる」のがフリージャズ。それにしては「この前『題名のない音楽会』で見たけど、神妙に弾いていたぞ」と反論される向きもあるかも知れないが、神妙に弾こうとそれは彼の「自由」であるから「フリージャズ」なのである。水泳の自由型だってデタラメに泳いでいる選手はいない。やろうと思えばデタラメをやれる、というのがフリージャズの今日的な定義なのだ。また、ジャズに全く興味のない方でも、タモリを九州で発見して連れてきたヒト、と説明すれば納得されるだろうか。「テレフォン・ショッキング」にも数回登場している。幕末好き、明治維新好きなら小説「ドバラダ門」の作者として知られているかも知れない。かつては「全冷中」という話題もあったが、最近は蕎麦のヒトになってしまったことでもあるし、まあそれは良しとしておきたい。あるいは、若い音楽ファンには菊地成孔の師匠としての山下が一番親しみやすいかも。
山下が関わった映画音楽の件は到底一回では記述できない。またそれをどのように映画史的に位置づけるかも単純には総括できない問題だ。そのためにここまで本連載でも扱ってこなかったわけだが、自分の原稿を読み返すといつの間にかそのスタイルは、映画史の流れに追従するように各作家や演奏家を置いていくというよりも、参考アルバムや時事的な話題を背景にしつつまとめていく形式に移行していた。厳密に文字数が決定され、しかも(原則的には)一カ月だけ市場に流通する紙媒体と違って、ネットに掲載する原稿は前の分もいつでも読めるし、文字数の制約も少ない。この見通しの良さが自然と書き方を変えさせていったのだろう。そういう次第で「山下洋輔と映画音楽」に関しても、網羅的にしつこく書き続けるのでなく、その中でテーマを小さく定めてアットランダムに語る方法を取ることにする。要するにトピックを核にして記述することにしたい。というわけで今回は「大復活祭」の件である。
日本の映画音楽史において山下洋輔がどう位置づけられるかというと、近年では今村昌平作品『カンゾー先生』や岡本喜八作品『ジャズ大名』『助太刀屋助六』等のスコアが何よりも重要だ。一応有名な映画賞を受賞していることでもあるし。けれど、そのあたりの本命、正統的な流れはまたいずれ取り上げよう。日本映画とジャズの関わりの事始めという根本的な(要するに山下以前の)問題についてもいずれ、ということにしたい。山下トリオの映画音楽という具合に問題を絞って見ていくならば、大復活祭でも演奏された「ミナのセカンド・テーマ」に言及しないわけにはいかない。タイトルから類推されるように、これは映画音楽用の素材。大和屋竺(やまとやあつし)監督の傑作ジャパニーズ・フィルムノワール『荒野のダッチワイフ』のために作られた。今回のコンサートでは出場者全員による大トリ「グガン」の一つ前に山下(ピアノ)、中村誠一(サックス)、森山威夫(ドラムス)の「オリジナル・トリオ」によって演奏されている。プログラムは原則的に時代をさかのぼっていくように構成されており、つまりコンサートのトリ的な意味を持つのがこの曲である。ちなみに「ミナのセカンド・テーマ」をタイトルに冠したアルバムは「1969年、山下洋輔トリオ、記念すべきスタジオ初作」(復刻CD版のオビより記述)としてリリースされたものだ。収録作品は他に「ロイハニ」と「グガン」、録音日は10月14日であった。
2009年で結成40周年ということは、当然結成が1969年である。オリジナル・トリオから幾度かのメンバーチェンジを経て83年いっぱいでこの山下トリオの一時代は終わる。今回のコンサートはこのいわば「かつての」トリオメンバーを全員招集する、というのがコンセプトである。リーダー山下は当然不動。ドラムスは初代森山と二代目小山彰太、サックスは初代中村、二代目坂田明、三代目武田和命(かずのり)、プラスワンに林栄一。武田はすっかり若返ってあたかも菊地成孔のごとし、等と書くのもわざとらしいか。彼は既に亡くなったので菊地が「代返」。そしてこの時代唯一のベース奏者として国仲勝男も出現した。つまりちゃんと全員揃った(代返可)。正式には83年大晦日渋谷オスカーでの演奏が最後だと思うが、筆者はその前、多分二週間くらい前の新宿ピットイン興行の最終日を聴いている。それから既に四半世紀(プラスワン年)が過ぎた。その間、日本人の新人を起用したグループや、ベースにセシル・マクビー、ドラムスにフェローン・アクラフというアメリカの一流ジャズメンを配した新トリオ、和太鼓奏者林英哲とのコラボレーション、韓国のパーカッション集団サムルノリとの共演、さらにはピアノでのオーケストラへの参加(あるいは乱入)といった具合に様々なスタイルのジャズを行ってきた山下。
改めて数えれば旧トリオ時代は14年に過ぎないがそのインパクトたるや、やはり絶大で、この夜の演奏が四半世紀前のスタイルの再演とはとても思えない。要するに輝かしいデタラメ時代というか、ちゃきちゃきのフリージャズが味わえるのだ。さて、しかしトリオ始まりの日付に着目してもらいたい。69年ということは『荒野のダッチワイフ』の二年後である。即ちこの映画の時点ではまだ山下洋輔トリオは存在しない。存在しないのに音が聴こえる、ということは別に空耳アワー、ではなくてそれ以前の山下の音楽がそこに存在しているからである。このあたりをよく知るジャズ評論家平岡正明の名著「戦後日本ジャズ史」(アディン書房)をひもとけば、そこには「ミナのセカンド・テーマ」は実はそんなタイトルではない、という話が出てくる。引用する。
「山下トリオの方向を決定づけた『ミナのセカンド・テーマ』と『木喰上人の踊り』は中村誠一のテナーとソプラノ・サックスなしでは生まれようもなかった。『ミナのセカンド・テーマ』ははじめ「ジハンナ」という題名で、山下洋輔が「ジハンナ」の開店祝いに、ちょこちょこと書きつけ、これでやろうや、といってはじまり、しばらく後に大和屋竺『荒野のダッチワイフ』の挿入曲に使われて、『ミナのセカンド・テーマ』という名前になったものである」
なるほど。ここに出てきた「ジハンナ」というのはアラビア語で「地獄」のこと。大復活コンサートのMCを務めた相倉久人がマネージメントをしていた新宿のライブスポットの名前である。そこで1967年9月17日に演奏されたのが初演ではないか、と平岡は記している。この時点で山下グループのメンバーはトリオでなくカルテットつまり四人で、山下、中村は共通だがドラムスは森山ではなく豊住芳三郎、そしてベースに吉沢元治が入っていた。トリオ以前の山下洋輔の音源はきわめて少なく、アルバムで聴けるものは「幻の銀巴里セッション」(スリー・ブラインド・マイス)に収録された「オブストラクション」くらいしかない(ただし、そちらはこのグループではない)が、映画『荒野のダッチワイフ』が現存することで、期せずしてこの時代の彼の演奏が楽しめる。ということで、さっそく『荒野のダッチワイフ』を借り出し、見て(聴いて)みようと思ったわけだが、タイミングが悪いことにレンタル中であった…。次回に回すことにしよう。