第0回
「世界映画DVD発見」というタイトルは、カナダのシネフィル季刊誌「シネマスコープ」連載中のシカゴ在住の映画評論家ジョナサン・ローゼンバウムのコラム名(オンラインで読める)にちなんでいる。

「世界」と言っても、もちろん、全体としての「世界」の出来事を網羅したり、それを何かで代表させたりという意味ではなく、無限定に開かれた「世界」と向き合う努力をするというだけのことすぎない。

各国の周縁的な映画DVDリリース情報にかんしては、以下のウェブサイトが参考になる。

DVDビーヴァー
DVDアフィショナード

DVDビーヴァーによる2005年ベストDVD LINK

1『雨月物語』(溝口健二。米Criterion)
2『太陽はひとりぼっち』(アントニオーニ、米Criterion)
3『観られていない映画/初期米国前衛映画 1891−1941』(10枚組。米Image Entertainment)
4『スリ』(ブレッソン。米Criterion)
5『ブレッソンBOX』(3枚組。『スリ』『ジャンヌ・ダルク裁判』『ラルジャン』収録)(仏MK2)
6『ハロルド・ロイド喜劇選』(7枚組。米New Line Entertainment)
7『アステア&ロジャース・コレクション第一巻』(5枚組。米Warner)
8『アルフレッド・ヒッチコック傑作選』(14枚組+特典盤。米Universal)
9『キングコング特別版』(33年版。2枚組。米Warner)
10『バルタザールどこへ行く』(ブレッソン。米Criterion)

同ジョナサン・ローゼンバウムによるベストDVD LINK

1『観られていない映画/初期米国前衛映画 1891−1941』(10枚組。米Image Entertainment)
2『ブレでの再会』(ジュリアン・グラックの原作本+サントラCD等含む豪華仕様特別盤。 アンドレ・デルヴォー。ベルギーBoomerang Pictures)
3『メトロポリス』(フリッツ・ラング。英Eureka-Moc)
4『ブレッソンBOX』(3枚組。『スリ』『ジャンヌ・ダルク裁判』『ラルジャン』収録)(仏MK2)
5『アン・ラシャシャン』+『セザンヌ』(ストローブ=ユイレ。仏雑誌「シネマ」特典ディスク)(*)
6『熱狂(ドンバス交響曲)』(ジガ・ヴェルトフ、墺ウィーン映画博物館)
7『雨月物語』(溝口健二。米Criterion)
8『突然炎のごとく』(トリュフォー。米Criterion)
9『巴里の恋愛協奏曲(コンチェルト)』(レネ。米Wellspring)
10『にがい勝利』(ニコラス・レイ。米Colombia)

*ローゼンバウムは知らないようだが、同時期に発売された紀伊國屋書店盤の『セザンヌ+ルーヴル美術館訪問』には、 『アン・ラシャシャン』『ロートリンゲン!』の4作品が収録されている。もちろん『ルーヴル美術館訪問』と『ロートリンゲン!』は世界唯一のDVD。

だが、これらのウェブサイトは、あくまでも好事家のヴォランティアにより運営されているため、国によっては、拾われていないレア・タイトルの商品は結構多い。実際、日本からの投稿者が少ないこともあり、たとえば紀伊國屋書店盤の、世界で唯一DVD化されているレア・タイトルないしはヴァージョンの多くは、英語圏でもほとんど知られていないようだ。また、ローゼンバウムも紹介しているような16ミリ、ビデオ、放映録画のコピーなどの海賊盤DVDもオークション・サイト等で近年多く出回っている。

DVDはたんに高画質というだけでなく、原版が修復されたり、貴重な特典映像が付くなどのメリットがある。商業的なトリックとしての特典にとどまらず、本当に本編以上に、普通は見ることのできないような貴重な映像がDVD化されるケースも少なくない。だが、それにたいする批評はほとんど目にする機会がないのは惜しまれる。インターネットやDVD(特に英語字幕付きの)の普及は、ヴァーチャルなシネフィリアの空間を可能にした。さらに「映画」のデジタル・アーカイヴ化、新たな流通テクノロジーが今後開発されるだろう。それは一面的には、アンドレ・マルローの「空想の美術館」の延長にあるような、国境や言語・文化を越えた「映画共和国」の理念を実現するのかもしれない。

しかし他方で、映像コンテンツ消費の選択肢の爆発的な増大は、大規模市場の画一化と、細分化された好事家の自閉化、公共的な映画史の喪失という事態を招きつつあるようにも思われる。「今これを観なければならない」という不特定多数の人々を駆動する共通の動機づけは衰弱し、多くの人々が特定の「最新作」に執着する理由は、せいぜい人畜無害な一過性の「話題」としてではないだろうか。常に好奇心および探究心旺盛な数少ない好事家すら、情報の海に翻弄されないためには、多角的な情報分析、広義の「編集」能力と、その組織化が要請される。このコラムもそうした実験のひとつである。

反面、こうした映画の新たな「解放」形態を妨げるのは、情報やリテラシーの欠如、言語・文化の壁もさることながら、リージョン・コードという制度である。上記DVDビーヴァーなどは非営利的な映画愛好家による、リージョン・コードによる映画愛好家集団の分断への抵抗の組織化の実践例であり、比較的安価なリージョン・フリー再生機が推奨されている。もちろん、新たなフォーマットの開発・普及に応じて、映画消費形態がさらに変化していくことも予想されるが、とりあえず当面は映画DVDの動向を観察してみたい。古い映画作品、ないしは一般公開されていない映画作品を観るという行為は、必ずしも無味乾燥な歴史研究や私的な懐古趣味や狂信やスノビスムにとどまらない可能性をもつはずだ。とりわけ年配の映画館愛好家の中には、DVD等による映画作品の視聴を嫌う向きもあるだろうが、むしろDVDでしか見ることのできない、あるいはDVDだからこそ容易に見ることのできる作品紹介の意義もあろうかと思う。

さらに最大の問題は、一般に、同一の映画作品は、著しく異なる版を用いた複製商品であっても、その固有名の同一性によって同一原版であるかのようにみなされるということだ。もちろん、同一映画作品のプリントも厳密に言えば1本ごとに発色その他の差異がある。だが、デジタル複製の問題は、常識的な許容範囲の誤差を超えて、あきらかに劣悪ないしは不正な画質・品質のソフトが流通していること、それにたいする規制も批判もないことである。DVDに限らず、今後、映画ソフトがいかなる形で流通することになろうと、DVDビーヴァーのように、メーカーごとの比較と批判が行われる必要もあるだろう。さらにDVDの場合、本編そのもののヴァージョン、テレシネの優秀性、従来埋もれる傾向にあった貴重な特典等が視聴の動機づけとなることもある。

だが残念ながら日本語で読める、良質の「映画DVD」批評はほとんど存在しない。とりわけ、劇場未公開作や過去数十年論じられていない旧作のDVDをリリースしても、それを批評するメディアは存在しない。放映作品についても同じことが言える。これは無原則的な市場原理主義の帰結だろう。

多くの映画愛好家には、今自分が選好する商品なり権威なりがあればそれで充分という実感があるのだろう。また選択肢が限られていることに不満を感じる者も、多くの場合、何の積極的な対抗策も実践しないのではないか。だが、各個人が何かを選好するための不可視の制度の長期的持続の条件について、経験的日常を超えて考えてみる必要もあるのではないか。映画が担保する共通の「映画の現在」が失われる中、各個人が多種多様に選好できる選択肢を供給する制度基盤。それを問う、いわば「映画の政治倫理学」が少なくとも日本語圏の映画論壇には欠如しているように思う。

以下の連載は、あくまでも偏向する好事家向けの、瑣末な蘊蓄の羅列にすぎないが、映画の背後に関係する未整理の情報に多少の補助線を引こうとするささやかな試みである。